I wasn't born yesterday. (2/2)
疲労感は、足取りを重くする。身体は、休息を求めて家路を急ぎたがる。厳しいメニューをこなした後は、いつもこのジレンマを引きずって歩くことになる。それが、今日はまた面持ちが違う。
足、腕、肩、そのどれよりも重いものを、石田は引きずり、一歩ごとにアスファルトを踏みしめるように夕焼けの道路を進んでいる。
「色んなこと考えてダブルスしてんのな。すごいよ、おまえ」
「鉄の身長やパワー活かさない手はないだろ。そりゃ、考えるって」
前をいく、二つの背中に、並びにいくことができない。石田はそこから少しだけ間隔をあけて歩いている。活発に言葉を交わす神尾と桜井の声が、風向きのせいか、石田の耳にはなんなく飛び込んでくる。横をいく伊武も同じように聞こえているはずだろうが、とりわけ彼の興をひくようなこともないらしい。積極的に水を向けない限りは、常どおり、沈黙は長く続く。
「組んで長いだけあるよな。後でもっと聞かして」
「おう。なんでも聞けよな。おまえも急で、大変だろうけど」
「まあ、な。でも石田とやるの初めてじゃねえし。結局、どんなオーダーでも橘さんが考えて組んでんだし。それだったら、やるし。俺らは、勝つしかねえし」
「……だな」
気づけば、いつも手を振って分かれる交差点まできていた。先を歩く二人は、すでに横断歩道を足元に横たえている。
「おまえら、おっせーよ」
「なんかおもしろいことあった?」
「……別に」
神尾と伊武はまだしばらく同じ道を行くが、桜井、石田はそれぞれここで一人になる。なんとなく一つの区切りをつけるように、それまで別の話をしていても、この交差点で全員が軽く手を上げて別れていく。そういう、日常だった。毎日迎える一時の別れが、今日もまたやってきた。桜井と神尾は、そのために遅れていた二人を待っている。
「んじゃ、また明日な」
「じゃあね」
「お疲れさん」
「あ、……また、明日」
今日に限ってあいさつを当たり前にこなせない。
そんな些細な石田のミスを、やはり桜井は気づいて、しかし気鬱そうに目を背けた。ラケットバッグを背負い直し、暑苦しいばかりの制服に片手を突っ込んで一人の道に向かう。
明日も今日の続きから始まるのだとしたら、いつも通りにそうなるのだとしたら、自分は神尾とダブルスの練習をする。それは、皆が当たり前のように了解している。
そうなったら、きっと柔軟やラリーの相手も、誰も何も言わずとも変わる。現に、今日の桜井は、伊武と一連の練習をこなしている。ダブルスは、ペアで。少しでも、相手の呼吸や癖をつかみ、それをコートの上でも感じられるように。伊武と桜井は、シングルス同士で、組んだ。
橘の指導で、そのように練習をこなしてきた。だから、今、桜井の背中が、こんなにも苦しい。
西日に焼かれる頬が熱い。桜井が一歩を踏み出すごとに、当然のように二人の距離は開いていく。明日から、この距離が当たり前になることを、桜井も、感じているのだろうか。不意に我が身をおそった束の間の予感に、気を取られ、こころを震わせた余韻を含んだまなざしを、彼が去った方向に注ぐ。
細い体が視界から消えても、未だ立ち去りがたく、その場から動けずに、立ちすくんでいた。
どう、なるだろうか。
このまま日が吸い込まれるように雑踏のかなたへ落ちていき、月がつり上がり、星の大河が架かる夜の先にめぐりくる朝、今ここで別れたまま再会したならば。
わかっている。きっと、なにごともないように顔を合わせるべきめぐりあわせに、自分たちはまぶたを伏せたままにしたがう。
それは、それで、誰もが予測している、すこし苦く、すこし正しい気がする、未来だった。
森や伊武、そして桜井も、おそらくはその正しさを見越している。
彼らが正しいと思うことを、そのままに受け入れることには、時々わずかな違和感がある。
ただ、信頼し大切にしているものたちが下すひとつひとつの判断は、尊重すべきものであって、口出しはすまいと思っていた。チームで戦うとは、そういうことなのだと。
橘のオーダーに異を唱えたいわけではない。彼の背負う責任に、個人的な感情でもって爪を立てるようなことはしたくない。
そう、わきまえている。だから、これは、決してふたりで橘を説得しに行きたいなどという結論へ向かう話ではないと、自分に再三言い聞かせてから、大きく深呼吸をした。赤く燃える照り返しの中にたたずんで、心持ち顔を俯けた石田の肩が上下する。なにかを諦めたようにも、決意したようにも、見えた。
携帯電話を取り出して、通話履歴を辿って目当ての番号を呼びだす。最近買ってもらったのだと嬉しそうにしてはいたが、部内の交流ではあまり活用されていない気がする。彼は誰に一番多く着信を入れ、メールを書くのだろうと、呼び出し音を聞きながらそんなことを考える。
なんとなく、自分ではない気がした。
コールは長く続いたが、石田は辛抱強く待ち、やがて桜井の声がスピーカーから聞こえ出す。
『もしもし。なに、どうした』
「……今からそっち行っていい?」
『はっ……』
なにを言おうか、話そうか、考えていなかったわけではないが。いつもどおり、今日はなにも特別なことはなかった、とでもいいたげな調子の声に口の中が乾く。それが災いして、様々な段取りをすっ飛ばしての言葉になった。
笑い損ねたような声が、短く切れる。
『いや、鉄? 俺もうほぼ家だし。このまま電話じゃ無理なお話?』
「走っていくから。俺まだ交差点から動いてないんだ」
『そういう、話じゃなくて。なんだよ』
「顔がみたいんだ」
『おお、じゃ明日嫌というほどこの男っぷりを見せつけてやる。だから今日は帰れよ。ちょっと変だぜ、おまえ』
「……変なのは、桜井だ」
崩れるな、だとか。落ち込むな、だとか。そういう意味の、言葉の数々。
桜井が、ずっと己に言い聞かせている、呪文、が、ある。
行こうぜ、全国、も、その一つだ。
そうやって、守ってきたものがあると、知っている。いつだってどこか軽やかな余裕をもって、得体の知れない信頼と許しをこめて、仲間の背に掌を添える友人が、かたくなに守っているものに、ふれる。切り込む。一心に、油断なく、耳を澄ませながら。
だからその瞬間のゆらぎは、桜井が隣にいるかのように、はっきりと知れた。
『なに、言ってんだよ』
「朝からずっと変だ」
『あのなあ。なんにも、ねーって。そういうのは勘ぐるだけ疲れるぜ?』
「そう。じゃあ、会えるよな」
『っ……鉄、おまえ、なあ……』
言葉を詰まらせた桜井に、行くから、とだけ繰り返して通話を切った。そしてそのまま走り出す。
迷いを振り切ってしまえば、その足は、身体は、散々走り回った昼間の自分を裏切るように、軽かった。
「本当に、走って来るかよ。ふつう」
「待ってたくせに」
「……待つだろ、ふつう」
「走って来るだろ、ふつう」
夕日に照らし出された、見慣れた目鼻立ちと対面する。得意の作り笑いの口元が、けなげに悲しみを覆い隠そうとする。押さえきれない苦みが、うっすらと、寄せられた眉にあらわれて、笑顔が、崩れかけていた。
軽い応酬に、桜井はすこしだけ気の抜けた、短い笑いを発した。あきらめの混じる、萎えた声。
「結局、なんなんだよ。俺を待たせて、つまらない話じゃ、承知しねえぞ。鉄」
「……桜井」
一呼吸分、時間が必要だった。
「俺、神尾とのダブルス、全力でやる」
そりゃあ、そうだろうよ。
うっすらと皮肉に細くなる目元が、ちらちらと光を跳ね返す。
「ダブルス、もっと上手くなる。今よりずっと強い後衛になるよ。これ、そういうチャンスだと思う。神尾、ゲームメイク苦手って言って、俺に相談してくるんだ。俺だって桜井に頼りきりなのにな」
「……んなこと、なかったよ。お前だって、すごい勉強してきて、戦術会議したろ」
「その、過去形。わざとか」
石田がじっと見つめる、その眼前で、桜井の笑顔は消えた。懸命な努力をすべて裏切ってあらわれたさびしげな色の瞳が、石田のそれと出会うことを迷うようにさまよう。
「待ってるから。絶対、ここに戻ってこいよ」
となり、に。
結ばれた唇は動かない。普段ならしきりに頷いたり、笑ったり、あきれたりと感情表現に忙しい頭も、動かない。視線だけが逃げようとして、それも捕まる。
泣きそうな目をしている。石田は静かに語りかけながら、そんなことを、思った。
「俺は、また桜井とのペアで試合やりたい。二人で、もっと強くなりたい。俺の力とか、ちゃんと活かせるように考えてくれたお礼、コートでするしかないって思ってるし」
だから、待っている。
だから、追いかけてほしい。
「鉄は、わがままだな」
「知らなかったっけ」
「いや、知ってたよ」
どこまでが本意なのか判別しがたい、桜井の普段の言いぐさを真似てみたら、案外にまじめな調子で返される。ふいとそらされた目線が、恥じらうようにまた戻る。その居心地の悪い様子に、かえって安堵した。
届いている、という、手応えだ。
「ほんと、おまえはしょうがねえやつ……」
首をふって、桜井は呟いた。
「鉄、俺も、お前に言いたいこと、あるよ」
「なに?」
「腕。おまえの、腕」
指が、示す。石田の、右腕。
「大事にしろ。俺とダブルスまたやりたいってんなら、壊すなよ」
「……ああ」
「その返事、忘れるな」
「ああ!」
右でぐっと拳をつくり、顔の前にかかげる。下から伸びてきた腕が絡み、同じ形をつくって肘同士ががっちりとかみ合った。自分のそれよりも小さな拳が、薄い皮膚をとおして骨にあたる。確かめるように、何度も。
気合いを入れるために、よくこういうことをする。試合前、練習前、なんでも、いつでも。桜井と、ダブルスを組んだときから。このやり方を教えてくれたのも、桜井だった。
桜井はしばらく目元で笑いながら、戯れるように拳をすりあわせた。しかし、ふとその瞳が陰る。同時に、絡んだ腕に、ずるりと重さがかかった。くたりと垂れた拳が、腕が、力なく石田の腕に引っかかっている。
異変に、石田の身体が強ばり、桜井の腕を締めつけた。取りこぼすのをおそれるように、ひきあげるように。
「俺は、お前の言葉を信じたい」
切実な願望の告白。
それは、疑う心がある、ということの、裏返しか。はじめて打ち明けられた願いに、石田は言葉を失った。
信頼を、得られていたと思っていた。培ってきたと思っていた。たとえ考え方が違う部分があっても、そんなことが気にならないぐらいの、確かなものを。
それが、いま、脅かされている。胸が悪くなるような、不快な寒気が心臓の間近にあらわれた。
「いや……悪い。少しこわいこと考えちまった」
こわいこと。桜井にとって、こわい、ということ。
なんだ。なんだ。
こわいこと。それから、桜井を守れるだろうか。
桜井がおそれるものの正体を解き明かせなくても、それは可能か。不可能であるなら、どうする。やるしかない。それでも。なにがあろうと。
けれど、「それ」は石田の内側からやってくるはずなのだ。桜井の言葉が真ならば、彼がおそれているのは、石田のことだ。自分のなにかが桜井をおびえさせる。
かたくなった石田の表情を見て取ったか、今度は桜井がふわりと苦い笑みを浮かべた。
「全国で戦えば、きっと嫌でもわかる」
ごまかすために、笑わなければならないほどのものか。
謎かけは苦手だった。なにが、わかる。全国のコートまで行かないと、わからないことか。
そのとき、桜井は隣にいないのに。神尾と共に戦うコートの上で、わかることが、あるのか。それを桜井はもう知っていて、こんな顔をする。
どうすれば。
どう、すればいい。
「……すっげー顔っ」
困りきった石田の顔を見上げて、桜井はいきなり肩をすくめてくつくつと笑った。目のはしに涙まで浮かべ、それを指で振り払う小芝居つきで、彼は先ほどまでのなにか深刻な陰を振りきるように。腕も、解かれた。振り払うようでも、あった。
ひとしきり笑いおさめて、桜井は凛とした目つきで石田を見据えた。
そして、発する。
「結局、俺は、お前の決めたことを応援するって決めてんだ……そうしてやらなきゃ、なんねえって、思ってんだ」
「……そうか」
「ん。そうなの。俺は鉄の味方、なの」
最初は勢いよく、そして最後は一言一言を噛みしめるように告げる桜井の、やさしい、不可思議なほどの、そしていつもどおりの、穏やかな肯定が、石田に再び拳をかかげる勇気を与えた。チームメイトから、親友からの言葉として、これほど心強いものが、あるか。たとえ立つコートが違っていても、そばにいる。
「ありがとな」
「おうっ。ぶちかましてこいよ!」
ごつりとぶつけた拳と、笑顔が、いつも通りなことに安心して、やっと、笑えた。いつも通りに。桜井の傍らで笑い、また明日な、と、手をふった。
ふたりともに、笑顔で、手をふった。
うすい夜に紛れはじめた影はやがて離れ、家路をたどる。ただ片ほうの人影だけは、遠ざかる片割れの姿を、ながく、ながく、見送っていた。
石田は強く踏み込み、もてる力のすべてを賭して、力の、気力の果てがくるまで、腕の痛みに耳を貸さず、ネット越しに立つ二人の実力者と対峙し続けた。
たくましい腕が彼の身体を抱きとめるまで、石田は、ラケットを手放さなかった。
対戦相手への勝利をたたえる声援にまぎれ、かすかに、桜井の声が、遠く聞こえた、気がした。
揺るがないただしさは、強さだと思う。
だれも傷つけない、ただしくまっすぐな道は、歩けなかった。自分の身体は、技に耐えきれず壊れていく。
それでもいいと、信じていた。すべてを賭けて、ほしいものがあった。
強くない己を恥じ、詫び、頭をたれて、誰かの腕がつよくつよく身体に巻き付くのを感じながら、石田は同じことを繰り返し口の中でつぶやいていた。
勝てなくて、すみません。
橘、さん。
ばかやろうと、熱くかすれた声が、耳朶を叩いたが、石田は心臓の音や、いっこうに静まらない息の乱れ、終わらぬ懺悔に忙しく、それに気づくことはなかった。
(まあ、覚悟は、していたさ)
20121217
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