cry in pain


制服の下で、ぼろぼろになった皮膚が固い生地とこすれてかゆかった。特に、肘や膝はひどい。曲げるから、動くから、そのたびに傷ついた肌がひきつれるような感覚がある。あとは、打撲、紫とか黒のきもちわるいあざ、すりきず、とかなんとか。あちこちがとにかく痛む。
あいつらは卑怯だ。誰かを一人にさせて、こういうことをする。この間なんて、一気に二人を相手させられたんだぜ。信じられるかよ、こっちのコートには俺一人で、向こうはふたり。特訓とかいって、ふざけんなよ。
まだらな肌を隠さなきゃみたいな空気も俺にはうるさい。いいだろ別に、なんで、周りのやつらにまで気をつかってやんなきゃならねえんだよ。俺は、俺達は、自分たちのことだけでいっぱいいっぱいなのに。

「なに見てんだよ……」
自分の机にいるだけで、色んなやつらが腕のあざを、頬のガーゼをじろじろと見る。見せもんじゃねえよ。さっと目をそらしていくところまで、全員同じだった。
長袖のシャツなんて暑苦しいもの着たくなかったけれど、ああ、桜井たちは頭がいいよ。多分ここまで考えて、長袖にしてるんだろうな。
顔をそむけてのひそひそ声が耳障りで、ヘッドホンが手放せない。あの声を聞くと、あいつらと同じところに行っちまう。
真っ先に、テニス部と関わるとやばいって言い始めたのは、辞めてったやつらだった。ああもう関わるなよ。お前らなんてどうせテニスしなくたって楽しくなんかやれんだろ。
でも俺は、あいつは、テニスじゃなきゃだめなんだって思うよ。
こんな雨の日だって、ラケットを握れる場所を探すんだよ。
お前らさっさと消えろよ。


「神尾」
無害そうな顔した森が、教室の入り口から俺を呼んだ。肩に背負われたラケットバッグを見て、空気のざわつきがやんだ。いいぞ、そのまま静まれ。

「なんだよ」
最初は同期の全員に対して妙な距離があった森も、一緒に殴られているうちに平気な顔をするようになった。変な話だけどな。
薄い机の板に乗せていた体重を引き戻して、立ち上がる。近づいてきた森の言うことの予測がなんとなくついた。っつーか、それしかねえの。先取りして、ここのところしばらく続いているいらだちがますます胸のあたりでむかつく感じに渦巻いた。なんだろな、これ。

「伊武いる?」
ほら、やっぱり。

「なんで俺に聞くんだよ。見りゃわかるだろ、いねえよ」
「うーん。そっか。教室にいなくて」
「……いねーの?」
「清掃当番のはずだけど、それにしたってもう終わってる時間だからね」

こめかみが、心臓といっしょにずきずきと痛んだ。森が言葉を切った短い時間のうちに、不安に似たものが押し寄せてきて、それは俺の足もとをすくおうとしているみたいだ。こわい、っていうのか。とにかく嫌な感じだった。
森が深司を探すみたいに廊下を見て、それにつられて、俺も、そっちを見た。男なのに長い髪が、揺れてないかって。でも、いない。
俺と森はきっと同じような表情をしている。森の顔を見れば、俺がどういう顔をしているかわかる。たった一ヶ月、一緒に殴られたり走らされたりしただけなのに、これ。怖いこと、全部わかるよ。森は特に、怖いものが嫌いだから。

たとえば、今日みたいな春の雨が引ききっていないときのグラウンド。転んだときに派手に汚れて親になんか言われるから。
たとえば、練習試合で先輩たちが負けた次の練習。言わなくてもわかるだろ。
たとえば、誰かが、ひとりでいなくなること。


「……行こうぜ」
口の内側でぼこぼこと噛みきった傷が歯に当たる感覚を気持ち悪く思いながら、ともかくここにいないことは確かだからと教室を出ようとした所で、廊下がざわついていることに気づく。
「なんだろ?」
しけった空気のなかで、妙な匂いがするやつらが帰り支度をしながら眺めている、土砂降りの外の景色。なにがそんなに面白い、と舌打ちもしたくなる。
べたべたと張りついている背中を少し目を細めて見やった森が、ぱっと一足で窓に飛びついた。ほとんど殴るような勢いで、窓に手のひらを押し付けて凝視する、その先。

「ちょっと、あれ!」

窓の外を、幽霊のような風体で歩いている影がある。しめった髪が一筋ぺったりとくっついている顔がひどく白くて、殴られたあざの気味悪さがめだった。
グラウンドの土を厳しく叩く雨粒が、すでにあちこちで濁った水路をつくっている。そのなかを、深司が、片足をかばってずるずると歩いていた。

傘をさすとか、走るとか、そういう気力がないのか、深司は校舎の窓から少し離れたところをとぼとぼと歩いて行く。うなだれているわけでもなくどこか遠くを見ているような様子が不気味だった。
口元がわずかに動いている。なんだ。なにか、言い続けている。
白シャツの背中が、泥にまみれて、明らかに転んだんじゃねえなって思った。腹のあたりに、靴の形をした跡がある。よくみれば、いくつも、雨土をえぐって蹴りつけたらしい、汚れがある。つま先がどういう風に身体にめりこめば、あんな形がつくのか、俺はもうよくわかっている。
痛い。悔しい。あれは、いやだ。あの、無理やりひざまずかされて、一方的に蹴られる暴力。あいつらは両手をポケットにつっこんだまま、足先だけで俺たちをなぶる……。

廊下にいられたのは、そんなことを読み取る、ほんのすこしの間だけで、俺は窓辺からひとごみを押しのけた。上履きのゴムに窓枠の感触をつかむのも一瞬。すぐ後ろで、もうひとつ飛び降りる音がする。ばしゃりと泥を跳ねたてて、けれど、そんなのどうだって良かった。


「深司!」

黒いガラスみたいな目がちらりと動いて、雨粒のしたたるまつげが上下した。泣いているみたいに、目尻のきわから水分がぱらぱらと落ちていく。頬に流れるすじが本当に泣いているみたいで、俺は正面からその顔に向き合っていいのかわからなくなった。
乱れたままのシャツが肌にまとわりついているのさえ、見てはいけないようだった。腹の、赤や青や、紫、黒、いろんな色のあざが、濡れたシャツですこし浮かんでいる。

「なんで上履きなの」
「……そっから来たからだろ!」
「普通、来ないし」
「なに言ってんだよ」
「そうだよ。来るよ、こんなことになってたら。とにかく水道いかないと」
なんでもない風にふるまうのを、ばかやろうと怒りたかったけれど、言えなくなった。深司の声に、元気がなくて、今にも崩れそうなのが、わかっちまったから。森も、多分わかってるんだろうなって、いろんな気遣いから、すぐにわかった。

「すでに濡れてるのにさらに水とか……」
「そうじゃないだろ。傷洗うから」
「わかってるよそんなの」

彼の血が激しくめぐって、うすい皮にいくつも走ったひびわれからにじみ出る様子が、いやにくっきりと目にうつった。赤い色が、雨粒にとけて、ぽたぽたと生白い腕を流れていく。泥も一緒に、指先から滴った。

「神尾、ちゃんと見ていてあげてよ」
「なんで俺なんだよ」
「仲いいでしょ」
「っていっても、俺は深司の親じゃねえよ」
「でも、神尾が、一番深司のことわかってる。でしょ?」
「そっ……」

その瞬間、深司がふしぎな色をした目で俺を見ていたような気がして、俺は唇をかんで黙り込むしかなかった。
あいつのむき出しの腕を肩に回して、あいつのあたたかい背中に指を沿わせて、そのまま昇降口にむかって歩いた。
森が、深司の傷を洗った。俺は傍でそれを見ていた。話を聞きつけた桜井が持ってきたタオルを受け取って顔を拭う深司を見ていた。
深司はずっと、俺の方を見なかった。

俺は時々、怒っているような、悲しそうな、目の回りに水分が多すぎて雨のなかだってのに妙にてらてらガラスみたいに光ってたあいつの瞳を横目で盗んだ。
ああ、あいつは聞いたんだと思う。
そんなことないって、言おうとした俺の言葉を、実際には唇を通らなかった言葉を聞いたんだ。
それで、あいつは目をあんなに見開いて、ぽたりと雨にまぜて少しだけ涙をこぼしていた。前を向いたまま。
あのときは殴られた痛みが今更よみがえったのかとか、知った顔にかいがいしく声をかけられて安堵したのかとか、そんな風に思っていたけどたぶん違ったんだろうよ。違っていたと気づくべきだったんだろうな。
俺だって、あのとき少し思っただろ。
こいつのこと失うの、怖いって。



記録的な豪雨、という短いニュースを小さな液晶で読みとばし、俺は駅をでた。

今日みたいな大雨の日は、なんとなくあの日のことを思い出してしまう。土砂降りの校庭に飛び出して、パンツの裾に泥が跳ねるのもお構いなしに深司にかけよったあの日を。そこであいつが俺にむけた、ほとんど表情のぬけ落ちてしまった頬に流れた水滴のこととか、とてもひどいことをしたかのような気分と思い起こされるんだ。俺は実際、あいつを傷つけるようなことをしてしまった。

俺だって深司を大切にしたかった。けれどそれは深司の思っているほどの、あいつが一心不乱に向けてくる感情に比べてしまったらいかにも安っぽいものに見えた。社交辞令のようだった。いつも俺だって同じことを考えていると信じさせてやれなくて、あいつはそのことでも自分を責めた。悪いのはそう思わせてやれない俺だ。そして、ひょっとしたら本当に深司と同じようには思ってやっていなかったかもしれないなんて考えてしまうぐらい、今深司に対する気持ちに自信がない。
そんなひどい奴が、あいつの心配をするなんて身の程知らずか。でも、俺、あいつが寂しい顔してるは、いつだっていやだったんだよ。

せめてどこか屋根の下にいればいい。女の部屋とか男の部屋とかまずい飯屋とかはどうでもいいよ。最悪傘の下。いつなくしても良いようにって、安いビニール傘しか使わなかったあいつのことだ、すぐコンビニかどっかで買うよな。
大丈夫だよな。俺はあいつが唇をほとんど青くしてこの部屋の前で下着まで濡らして俺のこと待っていた時のことが忘れられねえ。あのときはほんと、こいつこのまま死ぬのかもと思った。それぐらい冷えきった体が傾いだからとっさに支えたら、ふれた部分からバカみたいな熱が伝わってきて、馬鹿かと怒鳴って部屋に引きずり込もうとした。
いやだ、いやだとあいつは抵抗したけれど、熱を出しているあいつに力で負けるわけがない。連れ込んで看病してたんだ、3日間ぐらい。
深司はほとんどしゃべらなかったけれど、代わりに俺のことを聞きたがった。仕事はうまくいっているのか、友達や女はいるのか、なんて、そんなこと。めんどうとは思いながら適当に答えてやると、少し安心したような顔をしくさったのがしゃくに障ったけど、病人のすることだからと思って許してたんだ。病人だから、病人だから……そう繰り返して、甘やかしていた。ひょっとしたら居着くかもしれないと思って、一度、不動産の広告前で足を止めた記憶が憎い。

「ただい、ま……って、くそ」

空っぽの部屋に向かって投げた言葉に舌打ちした。

ああ、だから。もう、ここにはいねえよ。雨に濡れるのがいやで、いつもは歩くひと駅分を電車にした俺の前には、もう二度と帰ってこねえんじゃねえの。





20130309

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