宗教論
怒りは腹もちがしない。あっという間に食いつくしてしまうから、神尾はすぐに空腹になる。
森は怒りも悲しみも感じない。なぜだろう。空腹を感じる、当たり前の、誰もが持っているはずの、そのような器官が、意識が、もう死んでしまったのか。長く続くわるい夢のなかにいるからだろうか。瞼の裏をながめつづけて、いつしか境界をみうしなってしまったか。熱にうかされたひとつの塊からはがれまいと、しがみつきつづけた代償か。あの夏をへて、身体も心も火傷をおった。
元気で楽しんでやってくれているのならそれでいいと、父母はいいました。それでは、僕は、親不孝者ですか。
灰色の部室の戸を開けて外へ踏みだす。見上げた空は雲ひとつなく快晴。気持ちのいい風がそっと流れて、すこし伸びた森の髪をなでていく。晴れがましい青空も、ずいぶん安くなったものだ。
三年目ともなれば、こうなるか。変化は誰にでも起こるものだろうか。この視界がくすんでいるのは、自分だけがかかえた疾患だろうか。
わからない。
仲間の誰が自分と同じように空を見あげるのか。
わからない。わかることも、怖い。
テニスができるだけでうれしかったあの頃、一週間の天気予報に一喜一憂した。誰か、同じ気持ちで、いまもテレビや新聞を見ているだろうか。
森はラケットを片腕にひっかけて、高いフェンスに囲まれたコートに足を向けた。軽くもない、重くもない。無感動な足取りで。いつものように、うっすらと口元を笑いのかたちにゆがませて、うなりをあげるスイングが、大気を揺らす場所へ歩む。
三年の、夏だ。もう、終わりが見えていて、昔は見えなかったゴールの白線がいきなりあらわれた気分になった。もう、終わりが、すぐそこにある。うすい筋肉のひきつりを、奇妙な唇のねじれを、笑顔というものに偽って最期をむかえるのだと、森は覚悟を決めている。
それなのに、神尾はまだぐるぐるとうなって、不服そうにコートを荒らすのだ。
神尾が怒りはじめたのは、いつからだったか。
それは、いささか機を逃していたように記憶されている。それぞれがそれぞれのやり方で、橘に与えられた全国ベスト8という証を胸のうちに、すくなくとも表面的にはおさめきったころ、彼はおもむろに怒りはじめた。きつい目つきはさらにつりあがり、一年の頃から同期の中では一番に多かった悪態がいっそう増えた。
悪態といえば内村もそれをよくしたが、神尾に比べて彼は穏健派だった。なにしろ多くが舌打ちひとつですまされていたから。
怒りといらだちを言葉にすることが面倒とのことで、森にはらしくないように感じられた。それが後輩の目を気にしてのことだとは、部内のおおよその同期が、そして当の後輩たちもが知りえたことだった。内村の意外な臆病が、好ましい。
神尾はそのような恐れを感じないのか、はばかりなく感情をまき散らす。
今朝も、橘が引退したときに撮った写真に向かって、神尾は明らかになにかを、破壊を、暴力を、理不尽を行使しようとしていた。桜井と石田がずっとその背中をうかがっている。日誌を書くそぶりを装って、実はなにも書いていなかった。彼らは神尾の手足をみている。じっと。壁面へ張り付けられた笑顔たちへ、不用意に怒りが襲いかからないように。
彼らは思い出の墓守りじみて、およそ森にしてみれば神経質なほどだった。その様子こそが神尾の怒りをあおりたてていることに、当人たちは気づいているだろうか。
神尾アキラの怒りの気配は伝染した。痙攣するように、空気が揺れ続ける。彼の音楽プレイヤーの中で繰り返される絶叫よりも悲痛な、声なき声に打たれたものは次々とあらわれた。
あるものは肩をすくめて水道に走り去った。あるものは後輩たちを呼び集め、別の練習へと誘導した。テニス部そのものから離れかけるものもあり、森はそれを追いかけた。そうしなければならなかったのか、そうしたかったのかは、わからないままだが。
そのなかにあって、伊武だけが変わらずに神尾の怒りに触れ続けていた。
空気中にある刺激物が肌を切り裂くのもまるで気にしていないように、神尾の前に、あった。
神尾はなにを期待されているのかがわかっていない。彼にとって一番の指導者、先輩は橘だったが、模倣は不可能だ。神尾の持つ物語は橘とは違うから。しかし神尾は怒った。物語の不在に。あまりに貧相な自らの物語に。
自分の価値を見極めるのは難しい。客観視など言うに及ばない。自分で自分を認めることすらできないのだ。
だってそうだろう。
俺たちはつまりなにかを為すことができたのだろうか。
これからなにかを残せるだろうか。
答えは、どこにある。
全国区でひしめく強豪校なら、歴史がある程度の正解を教えるかもしれない。比すれば、不動峰のテニス部は赤子に等しい。前年度のベスト8に名を残しはすれ、理解のある指導者にも、あるいは神懸かりのように力を奮う新入生にも恵まれていない。
部が存続し、大会に出場する。最低限の願いが、最低限のまま叶った。今も森にとっては二度目となる地区大会に向けて練習が続いている。
奇跡はすでにもたらされた。
おそらく、打ち止めだろう。
向かった先のコートで、飢えた獣が叫んでいる。
周りには練習の手を止めた部員たちが居並ぶ。
練習試合でもライン審判をおいているらしく、石田や内村が傍らに下級生を引き連れてコーナーにしゃがんでいる。教えるべきことは意外と多い。
例えば審判のやりかただったり、ドリンクの作り方、古くなったボールの捨て方、など様々な当たり前を下の代に受け渡す。その中には、癖のある上級生との接し方も、あるかもしれない。
伊武は教育など眼中にないようだった。その一途さがうらやましい。
彼は神尾の怒りを持続させようと必死になっている。
神尾の怒りは、腹持ちがしない。
怒りはすべて悪しきものか。そんなことはない。善悪の二分はできない。時には暴力すらありがたいと思ってしまう弱さが自分たちにはある。拳を振るうことの倫理よりも優先していいものがあると思ってしまった。それはたった一度の間違いかもしれないのに、これから長い時間をかけて向き合わなければならないような影になった。あのとき、身をもって知ったことだ。怒りと屈辱は、力に変わる。だから、新テニス部の創部だって成功した。
もし、ごく善良な上級生と顧問に恵まれていたら、ここまでテニスにしがみついただろうか。あの時の同級生達が、橘を新部長として迎え入れ、森の予想外のところで戦ったような、こんこんと湧く情熱の源を見つけられたか。いま、神尾は伊武を標的に据えている。エースペアと並び称された幼なじみが、頑強な壁となって立ちはだかる。
ためらいなく怒りがたたきつけられる、唯一の壁だ。
ラリーの止まったコートの上で、伊武は激しく肩を上下させている。視線は、ネットの先にうずくまった神尾を見下ろしている。四肢を折り曲げて、ラケットだけは手放さず、背を丸める。ハーフパンツからのぞく膝が、赤くなり、所々鮮血をにじませている。石田が下級生に耳打ちして、救急箱を取りに行かせた。
コート内の空気は引きつったまま動こうとしない。カウントを取っていた桜井も、礼を促せずに様子をうかがっている。
「なんで、俺なんだ! てめえ、深司っ…!」
執拗に繰り返されるネット際から後方ラインぎりぎりまでの振り回しに、神尾の脚力が負けた。厳しいラリーの応酬に、さっきまで食らいついていたのに。最後のポイントは、足をもつれさせた神尾が必死にのばしたラケットの一歩分先にささるショットで決まった。伊武がつくりだす一歩分の差は、永遠に縮まらない距離のように思われてならない。ほぼ横様に飛んだ神尾の身体が、心配そうに成りゆきを見守っていた後輩たちの視線のしたへ無様に転がる。
これが不動峰中学校、男子テニス部部長の、姿だ。
髪の乱れた頭をがくりと揺らし、やがてラケットを握り込んだ拳がコートを叩いた。
「俺、はっ……、っくそ!」
「うるさい、負け犬」
「は……そうかよ、俺は負け犬かよ。じゃあそんなの部長にしてうちはどうなんだよ!! は、はは、っは、ざまあねえ、な、オイ!」
神尾の乾いた笑い声がうつろに響く。
伊武も疲弊している。いつか終わる。神尾の怒りが、なくなってしまって、そして、その時彼は部を去るかもしれないのだ。ただ、永遠に続くものではない。
自分たちが団体として負け、終わってしまえば、伊武は簡単に神尾に勝ちを譲ってしまうだろう。無理に負けようとしなくても、きっとそうなる。彼は未だ橘のために戦っていて、その恩を返してしまったら、コートに張り巡らされた鎖はふっと消えてしまう。皆がそれぞれ、橘に借り受けたものから、残されたものから、背負わされてしまったものから、受け止めようと、逃れようと、汗を流している。
「さっさとコート空けろよ。サーブさせんだから」
背中に1年生を引き連れた内村が、帽子の下からぬるぬる光る目で神尾を刺した。伊武はとうに水道へ去ってしまった。コートに転がっている神尾を、一瞥もせずに。
「伊武より強くたって、橘さんみてえになれねえ」
「……立てる?」
「!」
助け起こそうとした手を払われて、森はまた口元を不可解な形に曲げた。怒りに翻弄される背中を見送り、やれやれと肩をすくめてみせる。弱音を聞かなかったことにはしてくれないらしい。
「こら、消毒!」
「いらねー」
「そんなわけないだろ!」
石田が救急箱を抱えて追う。
「ったくしょーがねーな。森、こっち手伝え」
「うん、わかった」
「んじゃとりあえず5分でサーブとレシーブチェンジな。やるぞ!」
「はいっ」
一揃いの声が内村に答え、ライン上に整列していく。後輩たちがここで、あと一年、二年と、ラケットを振るのかと思うと、なぜか不思議な気になった。それはとても長い月日のようで、振り返ってみると、短かった気がする。
たくさんの思い出と傷が、痛みを忘れたように振る舞う身体にうずいた。
森は神尾を羨ましく思う。自分の手に入らない性質を持つ人間のことは皆うらやましい。なにもが平凡な自分をかわいそうとは思わないが、時にはうるさく、吠えたててみたい。
しかし、けれど、なにに。
きゃんきゃんわんわん。
一途な怒りを、哀しみを、愚かさを、持ち続けていられたら、神さまにも愛されるのか。
地を這う犬の鳴きごえを、平坦な声でつぶやいて、森は手元でラケットをくるりと回した。順番待ちの後輩が真似をして、取りこぼす。
「ラケットの重心、ちょっと探すといいよ」
才のないことか。不運へか、信念を貫いた男へか。
そのどれもが森の怒りをかきたてるには物足りない。そのどれもが森がとうにあきらめてきたものだ。切り捨ててきたものだ。
才も運も、あの太陽も要らなかった。
そしてなにか、忘れてしまった。
「あっ、森先輩、できましたよ!」
ほら、と満面の笑みをたたえた少年が、くるりと手元のラケットを回転させた。真っ白なフレームに反射した陽光がちらりと輝き、森は目を細め、笑って頷いた。
怒るのも、怒らせるのも、悲しむのも、悲しませるのも、終わりだ。
あと少し、あと少し。
あと少しならば、笑って、いられるだろう。
20130207
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