I wasn't born yesterday.


空気はかろうじて夜明けの静けさを引きずり、かすかな冷気をたもっていた。
これから日が飛び跳ねるように天空へ向かい、容赦のない熱気で街を包む。昼間の一番暑い時間帯を避けて練習しようという目論見のため、不動峰中学男子テニス部、夏期休暇中の朝は早かった。

集合時間前にして、部室のロッカーは全員分の荷物がすでに放り込まれている。早めに集まることが習慣になっている部員は、走り込みをしていたり、ジャージの尻や露出した肌が汚れるのもかまわず入念にストレッチに取り組むなどして、各々に自主トレーニングをしている。
それらすべての様子を確認した上で、橘は決まって一からのアップを命じた。基礎体操を怠らないことでプレー中のつまらない怪我を防止する、という方針は徹底されている。

柔軟を任された桜井が号令を発し、各自が黙々と身体を動かす。事前にある程度あたためられている身体たちは、しなやかに伸びた。

「ごー、ろく、しち、はち! あと二十センチ前出す気で! ほら鉄、息とめるな! いーち、にい、」

石田はアドバイスされたとおりに息を継いで、テニスシューズの爪先をどうにか触った。指先に乾いたゴムの感触が届き、やったと思った瞬間に背中にのし掛かる負荷が増した。体幹を包むように広げられた桜井の両手がじりじりと石田の上半身を前に押し出す。
柔軟は積み重ね。少しずつ柔らかくなっていく身体の限界を慎重に観察しながら、毎日わずかばかりその限界を更新する。つま先に触れた時、すかさず更に力を入れた桜井はよく見てくれていると思う。

「ろーく、しーち」
「ちょっ、死ぬっ! ばか深司やめろ! 橘さん! 死ぬっ!!」
「だらしねえなあ」
「そーだぜ神尾」

石田たちのすぐ隣で、伊武は神尾の身体を遠慮なく折りたたみにかかっている。自分の下で神尾がいくらわめいても力をゆるめない。神尾は爪先を楽につかめるほどに柔らかかったが、息を吐く間合いで押し込まれて常よりも深く身体が倒れていた。
意外な柔軟さを見せる橘が笑い、内村が後に続いた。内村に跨られた森は余裕なく小さくうなっている。

「はいオッケー。次、足開いて身体倒す。右から。いーち、」

一瞬の脱力を許された面々からため息に似た声が上がるが、桜井はてきぱきと次の指示を出す。早えよ、と呻いた神尾に、桜井は「少しでも練習時間長くしたいだろ」と笑った。誰からも反論は無い。
額にうっすらと汗をうかべた石田が柔軟をこなしながらの苦しい姿勢で見上げると、周囲を余念なく見渡していた瞳がふわりと降りてくる。どちらからともなく微笑み、頷きあった。
天気は快晴。暑くきつい一日になろうとも、テニスができる喜びには代え難い。


アップを完了し水分を補給した面々が集合する。自然と橘を中心にした円陣が形成されるのが、結束の形を表しているようで石田には嬉しい。一つの目標に向かって全員の歩調を合わせていくことの喜びを、この仲間たちと知った。
早く練習に入りたくてうずうずしていそうな顔、真剣に橘の声を聞く顔。それらを見ているだけで頬が緩みそうになる。
(いけないな)
意識して引き締めようとした瞬間、橘の言葉が無造作に石田を殴った。

「石田。ダブルスのコンビネーション、神尾とやれ」

石田はとっさに桜井を見た。桜井は頑なに橘を見つめたまま、ゆっくりとまばたく。気づかない振りをされているのだとはわかって、けれど、なにもできずに機を逃した。神尾が小さく口をあけている。

「今日はこんな感じでやっていく。しつこいようだがきつい時もドリンクは飲め。昼は一時間半、自由時間にする。自主練も良いが、休みはしっかりとるように。質問あるか?」

声は上がらない。目配せ、かすかなうなずき、あるいはまつげを震わせるだけの、ささやかなコミュニケーションが音なく飛び交う。

「よし。練習開始」

わずかな乱れを含んで空に放たれた各々の返事は、そのままばらばらとほどけて、地に落ちた。
ぬるみ始めた朝のグラウンドに人影は少なく、テニス部以外のどの運動部もまともに集合してはいない。そのなかで一そろいの号令と応じる声が、快晴の空に抜けていく。石田はその様が好きだった。誇らしくさえあった。
それが、今朝は。普段の不動峰男子テニス部は、このような、無様なものではないはずだ。


「深司、休憩んとき3セットだけやんねえ? ドリンク賭けようぜ」
「いいけど、それやって後半バテないでよね。石田に迷惑かかるから。っていうか神尾はお金持ってるの」
「なんで俺が負けるの前提なんだよ! ったく、見てろよ。ダブルスでもシングルスでも負けねーっての」
「こういう自信満々な発言されると叩き潰したくなるのは人の常だよな。別に俺が短気なわけじゃなくてさ。神尾はムカつかれて当然だよ。まったく、後で泣いても知らないから」

コートに入っていく神尾たちの声が通りすぎていく。石田はようやく、今日の練習で桜井とペアを組めないことを腹の底に沈ませた。アップで火照った身体がそこからじわじわと冷えていくようで身震いをする。
初めて、ではない。桜井と違う相手と組んでみることは。実戦練習を始めたころ、それこそほとんど全ての二年生とペアを試している。伊武と内村のダブルスがあまりに噛み合わなかったものだから、コート上で桜井と大笑いをした。順調に互いのカバーをこなしながらポイントを重ねる二人に、橘が「しばらく石田桜井は固定でいくか」と言ったのはその数日後だったか。

半ば呆然としながら練習をこなす石田の背中に、桜井の平手が飛ぶ。集中、と短く告げて離れていく姿に伸ばそうとした手も投げようとした声も、迷いによって実を結ばない。ダブルスが得意と自負していた桜井に、なにを言えばいいのだろう。かけられる言葉を探して途方に暮れる。
自分はパートナーではなかったのか。こんな時に言葉一つかけてやれなくて、なにが。


石田の身体はテニスの動きを覚えていて、集中を欠いた状態でも勝手に動く。熱を吸い込みやすい色のジャージ、背中のフードが激しい運動にぱたぱたと跳ねた。手首に重い負荷がかかる。腰を捻って処理をした。打球の先で、待ち受けているのは誰だろう。

大丈夫だ。きっとまた一緒に組める。試すだけかもしれないし。
こんな言葉で桜井は慰められるのだろうか。


「石田!」
後ろから駆け込んできた森に腕を掴まれ、体躯に見合わない力強さで引き戻される。よたよたと下がりながら、今は入れ替わり式のボレー練習だったか、とぼんやり思う。森は石田を置き去りにして、前方に刺さる球を危なげなく掬った。頬のラインを伝った汗を拭ったら、いつの間にかすりむいていたらしい手の傷にしみる。コートの外まで退いた石田のすぐ横から疾風のように神尾が飛び出していき、打ち込まれるボールに食いついていく。

桜井は、悔しいだろう。俺と神尾が上手くやれたら。できなくても、きっとつらい。俺が桜井の立場だったらそう思う。自分の価値はなんだろう。そう、思う。

神尾の手元から小気味の良い音と共に描かれる弧を、視線で追う間はない。球が飛んでくる。軽く曲げていた足がコートを蹴る。なんとなく身体が動いて、腕の先につながったラケットがうなった。そこに意志はない。
乾いた打球音。

「あっ」

「あー、やったね……」
「おいおい。場外ホームランも良いとこだぜ」
森と神尾が高くあがった球を見上げてつぶやく。テニスコートを囲うフェンスを越え、グラウンドにボールを転がすなんて最近は久しくやらなかった失態だ。

「すみません。拾ってきます」
「構わねえが、もう昼休憩に入るぞ? 食べてから行ったらどうだ」
「いや……ついでに頭冷やしてきます」
「気合い入れてくるの間違いだろ、石田さんよー。しっかりしろよな」

内村に返す言葉がでない。軽い調子を装いながら、叱咤をごまかさない声。石田が正当性を認めるだけ、厳しく聞こえる。オーダーでたびたび後ろに回される内村の努力を誰もが知っていて、フォローは入らない。内村だけではなく、この場にいる全員が全国大会のために時間を惜しみ、悲鳴を殺し、練習している。集中していないことを注意されるのは当然のことだ。内村が言わなければ、ほかの誰かが言っていた。
思い思いにボールの行方を見ていた面々が視線を投げてくる。すぐとなりから、あるいは、ネット越しに。石田は血液がぐっと顔に集中するのを感じてうつむいた。
桜井も、見ている。走り回って乱れた髪を軽く梳くようにかき揚げるいつもの仕草のなかに、石田にわかるだけの、困惑と心配の色がある。相方の問いかける視線から逃げて、石田は大きな体を縮ませるようにうなだれた。

誰もなにも言わなかった。
球出しをしていた伊武がラケットでボールを繰り返し弾ませ、その単調な音が沈黙をさらに強調する。いたたまれない。

「ったく、しょうがねえな。走ってこい。他は球拾って休憩入るぞ」
黙って様子を見ていた橘がなんでもない調子で手を振った。それを幸いに、石田はコートを駆け足で出た。少し先で、グラウンドの表面が淡くゆがんで見える。あたりはすっかり熱っぽく湿った空気に満ちていて、石田をぶわぶわと包み込んできた。先ほどのやりとりで、顔ばかりが熱くなり、反面、身体のほうは血が引くのと同じ勢いでいやな汗が噴き出していた。すぐにジャージが吸い取ってくれたが、湿っぽくなる。
ぼんやりしていた頭を切り替えるように一度深く呼吸して、その後は少し早いペースで球が飛んだと思わしき方へ向かった。黄色いボールの輪郭すら、陽炎でとろけて崩れそうだった。

午後は絶対に、集中しなければ。部員全員が望んでいることはそれしかない。石田が集中して練習に参加すること。これ以上気が抜けたままあの場にいたら、「今日は帰れ」と言い出されても反論はできない。


砂砂利のグラウンドに転がっていたボールを拾い上げる。軽く手のひらで叩き、絡みついた砂を払った。テニスボールはつい最近くたびれてしまったものを選り分けて、新品を補充したばかりだ。部の備品はいつだって不足している。
コートの方を見やると、伊武と神尾が打ち合っている他は姿がなかった。橘の宣言通り、休憩の時間になったのだろう。
ジャージにきれいになったボールを押し込んだ。
グラウンドから校舎裏を回るコースを走ってから戻っても、弁当を食べ、筋トレをする時間はある。

「行くか……」

両手で頬を軽く張る。
走っていると、あまり他のこと考えなくなるから良い、と神尾は言う。石田はその感覚を理解できない。一人でも集団でも、自分の近くから遠くのことまで様々なことに思いを馳せてしまう。
無理に考えないようにと目をそらしているよりも、とことんまで考えこんでしまった方がいい。ジョギング中によく考えごとをするという桜井は照れくさそうに語ってくれたことがある。内面のことを打ち明けるときの恥じらいにも、そして走っている最中の思考についても、石田はよくよく同意している。

日差しが厳しいのは確かにつらかったが、途中で水道に立ち寄ることもできる。一度軽く膝を曲げ延ばしして、普段のペースを意識して走り出した。



コートに戻ってくると、神尾がひっくり返っていた。ラケットを傍らに横たえて、ごろごろと緩慢に姿勢を変えている。

「遅かったなー」
「ちょっと走ってきたからさ」
「ほんっとに、暑いのによくやるよ」

足音で気づいていたのか、神尾は石田の接近を視認しなくても声を上げた。一瞥もされないまま放られる言葉に軽蔑の響きはない。物好きの同類であることを、単純に面白がっている。
声がよく聞こえるようにと石田が横にしゃがむと、地面はもっと暑いぜ、と笑われた。

汗にまみれた額から前髪を乱暴に押しやって、神尾は大きく息をはいた。薄い胸が上下している。ミニゲームの相手をしていたはずの伊武の姿は見えない。

「シングルスの勝負勘鈍らせんなって、言われた」

帰りコンビニ寄ろうぜ、と言いながら起きあがる神尾の顔は妙にすっきりしている。

「石田よう」
「ん?」
「俺とお前。ダブルス、任される覚悟決めようぜ。やるからにはな」

神尾の言葉は、受け止めるのに苦労する重さをともっていた。部員からなにかとからかわれては騒がしく駆けまわっている彼は、一方で不動峰のエースという肩書きを伊武と分けあっている。地区大会のころから背負った勝利への期待に、彼は常に向かい合っていた。いつだって答えようとすることをあきらめない。

ダブルスを、任される。本当は、桜井と、そういう立場になりたい。橘から、チームへの一勝を、明確に期待される。責任と、信頼を、背負う立場。石田の横に選ばれなかった、親友の顔がよぎる。
神尾だって、シングルスが得意なプレイヤーだ。性格も、その様をはっきりと表している。神尾は、自分のペースでやることが、好きだ。今、皆が食事をとっている時間に、ごろごろと、汗が体中から吹き出すにまかせて、転がっているのも、それだ。そう、石田は考えている。
そんな神尾が、寄り添おうとしている。
歩調を変えてでも。
全国で、勝ちあがる、ために。
それは、なぜ。自動的に、勝ちを求める。そんな意志が、どこかにある。コート上か、もしかしたら、一人一人の、心臓の近くに。

「ああ、もちろん! 絶対、勝とうな」

勝利を、たった一つの絶対的な強さの証明を、真摯に追い求める神尾の視線にさらされて、石田は笑ってうなずいた。

自分の、心臓の近くにも、それは埋め込まれて、今このときも動いているのだろうか。胸が、こころが、奇妙に痛む。呼吸、脈動、ひとつひとつ、繰り返されることへの、わずかな違和感が、石田の笑顔を、ほんの少しだけくすませる。神尾には気づけないだけの、あわい陰り落ちた目で見上げた空から降り注ぐ光が痛く、石田は静かな息とともに視界を閉じた。
体を巡る血の熱が、陽光に温められるジャージのそれと混ざって、からだの輪郭、自分の、心の持ちようの外側が、じわりと、にじむ。


「勝つんだ、俺たち、で……、」
神尾が去り際に残した独り言を繰り返した。
俺たち、って、さ。
(誰のこと)



沈み込んでいく思考に耳を傾けるには、暑すぎた。神尾の言ったとおりに、地面は熱気が溜まっている。
ぼんやりとした頭からもやを振り払おうと身体をひねったところで、頭上に影が差した。いつの間に入ってきていたのか、ラケットを脇に挟んだ伊武が髪を揺らして石田を見下ろしている。

「ねえ。コート使いたいからどいてくんない」
「……ああ、ごめん」
「さっさとお昼食べてくれば。桜井外周走りにいったよ」

なんでもない口ぶりで付け足されたことに戸惑っていると、伊武はさっさとボールが満たされたカゴを取りに行ってしまう。そういえばと思いだし、ポケットに収まったままだったボールを放って戻す。片手に取り下げられたカゴに飛び込んできたボールの衝撃に、伊武の目がちらりと動いて石田を刺した。ひやひやと殺気だった気配に、伊武の矜持は、もし橘の眼前でフェンスを越えてボールを飛ばすようなことをしたら、きっと平気な顔で帰ってくることを許さないのだろうと、気づいた。
そのときになって、伊武の苛立ちが陽炎のように彼のうすい身体から立ちのぼるような錯覚を覚えた。それが本当に錯覚かどうかは、気にならず、ただ、その直感の正しいことだけは、みずっぽい膜に覆われた伊武の目元が異様にかがやき、鋭くなっていることで、知った。

「……あのさ」
「なに」
「ちょっとだけ、打ち合ってもらっていいか」

身振りだけの返事にうなずいて、石田はネットを挟んで伊武と向かい合った。
遠慮のない陽光、そしてコートからの照り返しが黒いジャージに包まれた身体を痛めつけるように挟みこむ。たちのぼる陽炎のなかで、ボールの小さな影がふたりの間をものも言わずに行き来する。

いつの間にか現れた内村が、しゃがみこみ、勝手にカウントをとり始めた。

石田が三回返しそびれたところで、伊武はそれまで動き続けていた足を止め、ラケットの縁でボールをするすると遊ばせる。

「こんなもんでしょ」
「そうかな」
「……自惚れるなよな」

ふいと顔を背けた伊武は、石田がありがとうといったところで、なにも返してこなかった。
内村も、なにも言わなかった。動かずともふきだすだろう首筋の汗を手で拭い、そのしずくを振り払う。帽子の影からひっそりと石田を睨んでいる。


ふたりの視線を感じながら、石田は部室に向かい、途中、すれ違った森から、昼飯時に桜井が差し入れた菓子があることを知らされた。
彼がうっすらと浮かべたほほえみのような口元のゆがみが、やけに見慣れないように感じる。
その違和感を追求する間もなく、森はすいと石田の脇を抜けていった。
決して大きくはない体躯の、迷いのない足取りがコートに向かう様を、しばらく目で追っていた。どうして、あのように歩けるのか、顔を上げ続けられるのか、一度彼に問いかけてみたいようでもあり、しかし、止まった足を、同じ方向へは踏み出していけなかった。
森には、なにかそのようなところがある。柔らかい拒絶の空気は、石田を部室へ押しやる。



外とほとんど変わらぬ暑さ、下手をすれば常によどむような湿気に体感温度は高く感じる部室では、神尾が膝の上に雑誌を広げ、橘はノートになにやら書き込みをしていた。ベンチに腰掛けている二人の間に、ていねいに広げられたちり紙があり、その上に小さな菓子があった。淡い紫の包装に黒々とした墨が流れ、手に取ると見かけよりも重みがある。
「お前、あんこ苦手だったか?」
「え、桜井んなこと言ってなかったですよ」
朝、柔軟を行いながら、桜井は石田に耳打ちをした。土産もので、おいしい和菓子を持ってきた、と。
当然一緒に食べるものだと思っていて、しかし、桜井は、石田の分を取り分けただけで部室を出ていった。石田も、桜井が部室にいる時間、それと知って、近寄らなかった。
なかたがい、すれちがい。
そう、見えるだろう。特に気にする様子のない、二人の会話が少しだけわざとらしく響くのは気のせいだろうか。
けれど彼は、桜井は、甘い菓子を柔らかな紙の上にとりわけてから、ここを去った。

「大丈夫です。……いただきます」
「おうっ」
「おまえに言ってないのに」
「んだよ、桜井のかわりだろ」

橘の鉛筆がとまり、包みを開きかけていた石田の指先の、短く切り込まれた爪が柔らかな紙にすべって、かさりと音を立てた。神尾は雑誌から顔をあげず、汗で張り付く前髪のなかに手をつっこんで、自分が言った言葉のことなど忘れてしまったように無関心に背を丸めている。

石田は手の中の包みをそっと自分のロッカーの端においた。言うべき相手を間違えてはいけない、と。

「……そろそろいくか」
橘の声で、それぞれが立ち上がり、蒸し暑い部室を後にする。
一切の加減が排除された練習が、炎天下のもとに再開された。七人分の気炎が、太陽を貫かんばかりにするどく立ち昇った。


――


疲労感は、足取りを重くする。身体は、休息を求めて家路を急ぎたがる。厳しいメニューをこなした後は、いつもこのジレンマを引きずって歩くことになる。それが、今日はまた面持ちが違う。
足、腕、肩、そのどれよりも重いものを、石田は引きずり、一歩ごとにアスファルトを踏みしめるように夕焼けの道路を進んでいる。

「色んなこと考えてダブルスしてんのな。すごいよ、おまえ」
「鉄の身長やパワー活かさない手はないだろ。そりゃ、考えるって」

前をいく、二つの背中に、並びにいくことができない。石田はそこから少しだけ間隔をあけて歩いている。活発に言葉を交わす神尾と桜井の声が、風向きのせいか、石田の耳にはなんなく飛び込んでくる。横をいく伊武も同じように聞こえているはずだろうが、とりわけ彼の興をひくようなこともないらしい。積極的に水を向けない限りは、常どおり、沈黙は長く続く。

「組んで長いだけあるよな。後でもっと聞かして」
「おう。なんでも聞けよな。おまえも急で、大変だろうけど」
「まあ、な。でも石田とやるの初めてじゃねえし。結局、どんなオーダーでも橘さんが考えて組んでんだし。それだったら、やるし。俺らは、勝つしかねえし」
「……だな」

気づけば、いつも手を振って分かれる交差点まできていた。先を歩く二人は、すでに横断歩道を足元に横たえている。
「おまえら、おっせーよ」
「なんかおもしろいことあった?」
「……別に」
神尾と伊武はまだしばらく同じ道を行くが、桜井、石田はそれぞれここで一人になる。なんとなく一つの区切りをつけるように、それまで別の話をしていても、この交差点で全員が軽く手を上げて別れていく。そういう、日常だった。毎日迎える一時の別れが、今日もまたやってきた。桜井と神尾は、そのために遅れていた二人を待っている。

「んじゃ、また明日な」
「じゃあね」
「お疲れさん」
「あ、……また、明日」
今日に限ってあいさつを当たり前にこなせない。
そんな些細な石田のミスを、やはり桜井は気づいて、しかし気鬱そうに目を背けた。ラケットバッグを背負い直し、暑苦しいばかりの制服に片手を突っ込んで一人の道に向かう。

明日も今日の続きから始まるのだとしたら、いつも通りにそうなるのだとしたら、自分は神尾とダブルスの練習をする。それは、皆が当たり前のように了解している。
そうなったら、きっと柔軟やラリーの相手も、誰も何も言わずとも変わる。現に、今日の桜井は、伊武と一連の練習をこなしている。ダブルスは、ペアで。少しでも、相手の呼吸や癖をつかみ、それをコートの上でも感じられるように。伊武と桜井は、シングルス同士で、組んだ。
橘の指導で、そのように練習をこなしてきた。だから、今、桜井の背中が、こんなにも苦しい。
西日に焼かれる頬が熱い。桜井が一歩を踏み出すごとに、当然のように二人の距離は開いていく。明日から、この距離が当たり前になることを、桜井も、感じているのだろうか。不意に我が身をおそった束の間の予感に、気を取られ、こころを震わせた余韻を含んだまなざしを、彼が去った方向に注ぐ。
細い体が視界から消えても、未だ立ち去りがたく、その場から動けずに、立ちすくんでいた。

どう、なるだろうか。
このまま日が吸い込まれるように雑踏のかなたへ落ちていき、月がつり上がり、星の大河が架かる夜の先にめぐりくる朝、今ここで別れたまま再会したならば。
わかっている。きっと、なにごともないように顔を合わせるべきめぐりあわせに、自分たちはまぶたを伏せたままにしたがう。
それは、それで、誰もが予測している、すこし苦く、すこし正しい気がする、未来だった。
森や伊武、そして桜井も、おそらくはその正しさを見越している。
彼らが正しいと思うことを、そのままに受け入れることには、時々わずかな違和感がある。
ただ、信頼し大切にしているものたちが下すひとつひとつの判断は、尊重すべきものであって、口出しはすまいと思っていた。チームで戦うとは、そういうことなのだと。
橘のオーダーに異を唱えたいわけではない。彼の背負う責任に、個人的な感情でもって爪を立てるようなことはしたくない。
そう、わきまえている。だから、これは、決してふたりで橘を説得しに行きたいなどという結論へ向かう話ではないと、自分に再三言い聞かせてから、大きく深呼吸をした。赤く燃える照り返しの中にたたずんで、心持ち顔を俯けた石田の肩が上下する。なにかを諦めたようにも、決意したようにも、見えた。

携帯電話を取り出して、通話履歴を辿って目当ての番号を呼びだす。最近買ってもらったのだと嬉しそうにしてはいたが、部内の交流ではあまり活用されていない気がする。彼は誰に一番多く着信を入れ、メールを書くのだろうと、呼び出し音を聞きながらそんなことを考える。
なんとなく、自分ではない気がした。

コールは長く続いたが、石田は辛抱強く待ち、やがて桜井の声がスピーカーから聞こえ出す。

『もしもし。なに、どうした』
「……今からそっち行っていい?」
『はっ……』

なにを言おうか、話そうか、考えていなかったわけではないが。いつもどおり、今日はなにも特別なことはなかった、とでもいいたげな調子の声に口の中が乾く。それが災いして、様々な段取りをすっ飛ばしての言葉になった。
笑い損ねたような声が、短く切れる。

『いや、鉄? 俺もうほぼ家だし。このまま電話じゃ無理なお話?』
「走っていくから。俺まだ交差点から動いてないんだ」
『そういう、話じゃなくて。なんだよ』
「顔がみたいんだ」
『おお、じゃ明日嫌というほどこの男っぷりを見せつけてやる。だから今日は帰れよ。ちょっと変だぜ、おまえ』
「……変なのは、桜井だ」

崩れるな、だとか。落ち込むな、だとか。そういう意味の、言葉の数々。
桜井が、ずっと己に言い聞かせている、呪文、が、ある。
行こうぜ、全国、も、その一つだ。
そうやって、守ってきたものがあると、知っている。いつだってどこか軽やかな余裕をもって、得体の知れない信頼と許しをこめて、仲間の背に掌を添える友人が、かたくなに守っているものに、ふれる。切り込む。一心に、油断なく、耳を澄ませながら。
だからその瞬間のゆらぎは、桜井が隣にいるかのように、はっきりと知れた。

『なに、言ってんだよ』
「朝からずっと変だ」
『あのなあ。なんにも、ねーって。そういうのは勘ぐるだけ疲れるぜ?』
「そう。じゃあ、会えるよな」
『っ……鉄、おまえ、なあ……』

言葉を詰まらせた桜井に、行くから、とだけ繰り返して通話を切った。そしてそのまま走り出す。
迷いを振り切ってしまえば、その足は、身体は、散々走り回った昼間の自分を裏切るように、軽かった。


「本当に、走って来るかよ。ふつう」
「待ってたくせに」
「……待つだろ、ふつう」
「走って来るだろ、ふつう」
夕日に照らし出された、見慣れた目鼻立ちと対面する。得意の作り笑いの口元が、けなげに悲しみを覆い隠そうとする。押さえきれない苦みが、うっすらと、寄せられた眉にあらわれて、笑顔が、崩れかけていた。
軽い応酬に、桜井はすこしだけ気の抜けた、短い笑いを発した。あきらめの混じる、萎えた声。

「結局、なんなんだよ。俺を待たせて、つまらない話じゃ、承知しねえぞ。鉄」
「……桜井」

一呼吸分、時間が必要だった。

「俺、神尾とのダブルス、全力でやる」

そりゃあ、そうだろうよ。
うっすらと皮肉に細くなる目元が、ちらちらと光を跳ね返す。

「ダブルス、もっと上手くなる。今よりずっと強い後衛になるよ。これ、そういうチャンスだと思う。神尾、ゲームメイク苦手って言って、俺に相談してくるんだ。俺だって桜井に頼りきりなのにな」
「……んなこと、なかったよ。お前だって、すごい勉強してきて、戦術会議したろ」
「その、過去形。わざとか」

石田がじっと見つめる、その眼前で、桜井の笑顔は消えた。懸命な努力をすべて裏切ってあらわれたさびしげな色の瞳が、石田のそれと出会うことを迷うようにさまよう。

「待ってるから。絶対、ここに戻ってこいよ」

となり、に。

結ばれた唇は動かない。普段ならしきりに頷いたり、笑ったり、あきれたりと感情表現に忙しい頭も、動かない。視線だけが逃げようとして、それも捕まる。
泣きそうな目をしている。石田は静かに語りかけながら、そんなことを、思った。

「俺は、また桜井とのペアで試合やりたい。二人で、もっと強くなりたい。俺の力とか、ちゃんと活かせるように考えてくれたお礼、コートでするしかないって思ってるし」

だから、待っている。
だから、追いかけてほしい。

「鉄は、わがままだな」
「知らなかったっけ」
「いや、知ってたよ」

どこまでが本意なのか判別しがたい、桜井の普段の言いぐさを真似てみたら、案外にまじめな調子で返される。ふいとそらされた目線が、恥じらうようにまた戻る。その居心地の悪い様子に、かえって安堵した。
届いている、という、手応えだ。

「ほんと、おまえはしょうがねえやつ……」

首をふって、桜井は呟いた。

「鉄、俺も、お前に言いたいこと、あるよ」
「なに?」
「腕。おまえの、腕」

指が、示す。石田の、右腕。

「大事にしろ。俺とダブルスまたやりたいってんなら、壊すなよ」
「……ああ」

「その返事、忘れるな」
「ああ!」

右でぐっと拳をつくり、顔の前にかかげる。下から伸びてきた腕が絡み、同じ形をつくって肘同士ががっちりとかみ合った。自分のそれよりも小さな拳が、薄い皮膚をとおして骨にあたる。確かめるように、何度も。
気合いを入れるために、よくこういうことをする。試合前、練習前、なんでも、いつでも。桜井と、ダブルスを組んだときから。このやり方を教えてくれたのも、桜井だった。

桜井はしばらく目元で笑いながら、戯れるように拳をすりあわせた。しかし、ふとその瞳が陰る。同時に、絡んだ腕に、ずるりと重さがかかった。くたりと垂れた拳が、腕が、力なく石田の腕に引っかかっている。
異変に、石田の身体が強ばり、桜井の腕を締めつけた。取りこぼすのをおそれるように、ひきあげるように。

「俺は、お前の言葉を信じたい」


切実な願望の告白。
それは、疑う心がある、ということの、裏返しか。はじめて打ち明けられた願いに、石田は言葉を失った。
信頼を、得られていたと思っていた。培ってきたと思っていた。たとえ考え方が違う部分があっても、そんなことが気にならないぐらいの、確かなものを。
それが、いま、脅かされている。胸が悪くなるような、不快な寒気が心臓の間近にあらわれた。

「いや……悪い。少しこわいこと考えちまった」

こわいこと。桜井にとって、こわい、ということ。
なんだ。なんだ。
こわいこと。それから、桜井を守れるだろうか。
桜井がおそれるものの正体を解き明かせなくても、それは可能か。不可能であるなら、どうする。やるしかない。それでも。なにがあろうと。
けれど、「それ」は石田の内側からやってくるはずなのだ。桜井の言葉が真ならば、彼がおそれているのは、石田のことだ。自分のなにかが桜井をおびえさせる。

かたくなった石田の表情を見て取ったか、今度は桜井がふわりと苦い笑みを浮かべた。

「全国で戦えば、きっと嫌でもわかる」

ごまかすために、笑わなければならないほどのものか。
謎かけは苦手だった。なにが、わかる。全国のコートまで行かないと、わからないことか。
そのとき、桜井は隣にいないのに。神尾と共に戦うコートの上で、わかることが、あるのか。それを桜井はもう知っていて、こんな顔をする。

どうすれば。
どう、すればいい。

「……すっげー顔っ」

困りきった石田の顔を見上げて、桜井はいきなり肩をすくめてくつくつと笑った。目のはしに涙まで浮かべ、それを指で振り払う小芝居つきで、彼は先ほどまでのなにか深刻な陰を振りきるように。腕も、解かれた。振り払うようでも、あった。

ひとしきり笑いおさめて、桜井は凛とした目つきで石田を見据えた。
そして、発する。

「結局、俺は、お前の決めたことを応援するって決めてんだ……そうしてやらなきゃ、なんねえって、思ってんだ」

「……そうか」
「ん。そうなの。俺は鉄の味方、なの」

最初は勢いよく、そして最後は一言一言を噛みしめるように告げる桜井の、やさしい、不可思議なほどの、そしていつもどおりの、穏やかな肯定が、石田に再び拳をかかげる勇気を与えた。チームメイトから、親友からの言葉として、これほど心強いものが、あるか。たとえ立つコートが違っていても、そばにいる。

「ありがとな」
「おうっ。ぶちかましてこいよ!」

ごつりとぶつけた拳と、笑顔が、いつも通りなことに安心して、やっと、笑えた。いつも通りに。桜井の傍らで笑い、また明日な、と、手をふった。
ふたりともに、笑顔で、手をふった。

うすい夜に紛れはじめた影はやがて離れ、家路をたどる。ただ片ほうの人影だけは、遠ざかる片割れの姿を、ながく、ながく、見送っていた。






石田は強く踏み込み、もてる力のすべてを賭して、力の、気力の果てがくるまで、腕の痛みに耳を貸さず、ネット越しに立つ二人の実力者と対峙し続けた。
たくましい腕が彼の身体を抱きとめるまで、石田は、ラケットを手放さなかった。

対戦相手への勝利をたたえる声援にまぎれ、かすかに、桜井の声が、遠く聞こえた、気がした。


揺るがないただしさは、強さだと思う。
だれも傷つけない、ただしくまっすぐな道は、歩けなかった。自分の身体は、技に耐えきれず壊れていく。

それでもいいと、信じていた。すべてを賭けて、ほしいものがあった。

強くない己を恥じ、詫び、頭をたれて、誰かの腕がつよくつよく身体に巻き付くのを感じながら、石田は同じことを繰り返し口の中でつぶやいていた。

勝てなくて、すみません。
橘、さん。


ばかやろうと、熱くかすれた声が、耳朶を叩いたが、石田は心臓の音や、いっこうに静まらない息の乱れ、終わらぬ懺悔に忙しく、それに気づくことはなかった。


(まあ、覚悟は、していたさ)




20121217

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