でも届かないこともあるね



森はそこに色濃く漂う苦悩の気配に、不用意に扉を開けたことを後悔した。
雨粒を流す風が、脇から部室に吹きこむことに気づき、慌ててドアノブをひく。
肌とジャージの間にこもるしめった熱をさますように、室内は冷たく乾いた空気に満ちていた。入り口からロッカー前までを、うすい泥の筋がつないでいる。

その先にあるベンチに深く腰掛け、背を丸めた、橘の姿。膝のうえには、部誌とともに、彼がいつも練習メニューなどを考えるときに使う大学ノートがある。

ドアの前に立ちすくんで、額から頬の線をつたっておりてきた水滴を袖でぬぐう。
ああ、いま、ここは、彼の場所だった。踏み込むべきでは、なかった。
汗と雨に濡れて冷たくなったタオルの替え、など、そんなもの、こうして出くわすぐらいならばいらなかったのに。

「森か。ずいぶん、ねばっているな。他は誰が残っている?」
「神尾と、桜井が。石田もさっきまでいたんですけど、ガット張り替えたいって帰りました」
「そうか……。まあ、無理するなよ。あいつらにも伝えてくれ」
 
笑顔が向けられる。
橘は、激しさを増す悪天候のために練習をはやく切り上げた。それにも関わらず、まだ居残りをしている森を、かすかにたしなめる苦笑。
普段、どちらかといえば注意をされる仲間の姿を眺めている立場の森は、すこし居心地の悪さを感じた。無条件に、あやまりたくなる。こんなを顔されてもなんだかんだと言い返す、神尾や内村のようには、いかない。

勝ちたい。強くなりたいんです。
そんな一言を、躊躇なくほうって、やんわりとした制止を振り切るような真似ができない。
連日続く厳しい練習に疲労の色を隠せない部員に向かい、橘は雨を理由にして休みをあたえた。休んでもいい、ではなく、休め、なのだと、何人が気づいているのだろう。
勝ちたい。勝ちたい。
その思いに突き動かされて、体調管理がおろそかになりがちな部員のことを、橘はきちんと導こうとする。それに、従わないのは、不実に、なる、だろうか。橘が雨雲を見上げ、それから居並ぶ部員全員の顔を見つめた姿からは、すこし考えこむような、そして、諦めた、ような、気配がした。

同じクラスの神尾は、授業中、頻繁に居眠りをしては教師にしかられている。毎日のようにそれを繰り返すものだから、そんなに練習が厳しいのか、と問いがくる。
授業中の眠気に負けることがめったにない森は、教師のあきれた目線にも気づくことなく眠り続ける神尾を見ては困った顔をつくった。周りが笑えば、苦笑もした。小突かれて、ごしごしと瞼を手の甲で擦る神尾は、小さな声で悪態をつく。しょうがねえじゃん、と。
聞きつけた教師が更になんだかんだと説教をしたり、たしなめたり、からかったり、など、する。
森はあくびを噛み殺しつつ黒板をにらむ神尾を横目で眺めながら、せっせとノートにペンを走らせる。神尾が寝ていた部分は、より、丁寧に、内容の取りこぼしがないように気をつけた。
始終そのような調子であるから、周囲には森はよほど真面目に見えているだろう。現に、成績の面からみれば、森のそれは同級の部員たちから頭ひとつ抜けている。
問題を当てられても、特に苦労するようすもなく回答する。クラスの何分の一かの生徒は、教師が授業を進ませたいがために、正答することを見込んで指名される。彼らは教師の言わんとすることを汲んで、望まれる答えを口にする。森も、そのような生徒の一人だ。

どれだけ自主練習をしていたら、そんなに眠くなるのだろう。
どれだけ、テニスに打ち込んでいるのだろう。

本当は、そんなことばかり考えている。
彼が時々集中を切らせて、窓から見えるグラウンドの、さらにテニスコートという限定された場所をぼんやりとながめていることを、注意する教師はいない。不祥事を起こしたテニス部に在籍する変わり者の優等生は、少しぐらい居眠りをしても、きっと見逃される。
それぐらいの立ち位置にいることは、知っている。しかし、意志で抗えないほどの睡魔に襲われることは、ない。

どれだけ、どれだけ、みんなの知らないところで、ラケットを振っているのだろう。
ひとりで、走っているのだろう。
ここにある差は、努力、だけなのかな。


「いろいろ、気になって。……地区大会も、近いですから」
「無理もない。お前たちは初めての公式戦だからな」

ロッカーから湿っていないタオルを取り出し、額に頬に伝う汗を拭った。橘はノートを音を立てて閉じて、その上で指を組み合わせた。覗き見ようとは、思ってもいないが。注意深いその仕草に、目ざとく気づいてしまう自分もいやらしい。森は一つため息をついて、橘の脇に立った。

「俺たち、そういうの橘さんに任せっきりですね」
「ん? ああ、しかし、こういう場合は部長がやるものだろう」
「手伝えること、ないですか」

こういう、場合。
口の中でその言葉を反復し、飲み込みきれずに咳払いを一つしてから首を傾げた。

新設コートの整備、備品の調達、練習試合の打診など、ふつうの部であれば顧問、あるいは監督、マネージャー、そうでなくとも副部長などの立場の人間が分担するべき量の仕事を、橘はほとんど一人でこなしていた。
森は、遠まわしな言葉で、どうして、と訪ねたことがある。多くのことを一人でやってしまうことへの問いではなかった。森は、知らなかった。中学の部活の先輩、というものの姿の、ありようを。なにを、するべきなのかを。

うつむき加減の森の顔を無理に上げさせることなく、部長の仕事ぐらいは知っている、と、橘は笑った。遠い土地から来た彼は、それなりの規律によって整えられた環境のなかで団体行動をすることに慣れていた。
それから少しまじめな顔をして、お前たちにはこれから教える、とも、言った。
以来、橘は少しずつ仕事を分け与えるようになった。必ず訪れる引退の時を見据えたことだと、森は思って、口にすることはない。
けれどそんな橘が、決して手放さない領域がある。
ひとりきりで背負う、重みがある。

「そう言ってくれる、気持ちで十分だ。それにお前がいつも皆のことを気にかけてくれているおかげで、こっちは助かっている」

そのたぐいの言葉を求めたわけでは、ないけれど。
ものほしそうに見えただろうか。だとしたら、少し恥ずかしい。

森は、日々の積み重ねと、その結果が、すべて指導者に託されているとは思わない。ただ橘がかたくなに譲らない様子が、かえって、彼が感じている重圧の存在を漂わせる。頭を悩ませているところを見るのが辛いなどというのは、ひどくわがままであると知っている。
ただ差し伸べた手もやんわりと押し戻されるのであれば、最初から目に入れたくない。助けられないのだから、見たくない。
橘も、隠そうとしている。森が気づかないことを望んでいる。
そのことを了承しているために、彼との対話は、いつも、どこか茶番のようだ。

「……貢献、は、試合でしたいですね」
「もちろん、そっちも頼りにしている」

皮肉も僻みも自嘲もなにも、受け取ってもらえない、か。
とん、とん、と、つま先で床を叩きながら、下半身にまとわりつく疲れを振り落としていた森はふっと口元を緩めてしまった。

ああ、ここで笑うなんて、まったく、よくない。

口元を隠すようにタオルをあてがって、汗を拭うふりをした。橘の目がねぎらうように細められる。
そんなこと、あまりまっすぐに言うものではない。目線を合わせていられなくて、逃げてしまう。あまりばたばたと立ち去るのもどうかと思ってはいたが、潮時だ。

「ありがとうございます」

にっこりと口角をあげて、軽く頭を下げる。いつだって感謝しているのは、本当だ。惜しみなく時間をかけてくれることも、今のように、意識的に、励ましてくれることも。与えられるすべてが、じわりと熱をもって、森の背中を押しあげる。ただ、気を使わせてしまったような形は、不本意だ。
喉元までせり上げた言葉を、けほ、と咳にして吐き出し、背を向けた。

ジャージに突き刺さるような、視線を、感じる。
注意深くこちらを見守る、二つの目玉がある。切れかけた蛍光灯の下で不規則にきらめいていた、彼の目。様々なめんどうごとを背負っていることを押し隠そうとほほえみ、確とした拒絶をひめている。


「じゃ、俺たち渡り廊下にいますから」
「ああ……森、」

なにか、言われる。
橘がすこしだけ腹にためた空気が、慰撫の気配を伴って押し寄せてくる。その先の言葉は、一心に森に寄り添おうとしたものだろう。
けれど、やっぱり、いらない。


「行きましょうね、全国」

いいんです。別に。知らないかも知れないけれど、平気なんです。俺。
あなたに望まれなくても、呼吸していられます。
元気に、生きていけます。テニス、楽しくやれます。これからも、きっと。

ちらりと振り向いて、拳をつきだした。押し開けたドアから光の圧力が部室に流れ込み、橘は眩しそうにしながら、同じように手を握りこんで答える。笑った、ようだった。
あまりにも苦しそうだったから、とても、笑顔とはいえない。しかし、森にできることも、せいぜいが実直に練習に取り組み、周囲のきしみに目を配っていることしか、ない。

雨天ながら、まだ、この時間は外のほうが明るいらしい。瞼の奥が少し痛むような光に包まれているふしぎな雨空を見上げて、森は泥水を蹴り立てて走った。
大会の日まで、できることを、するだけだ。



「なー森、数学のノート貸してくんね? 俺の読めねえ」
「……ん」
「どした?」

帰り道、神尾に生返事をしながら、紺色の傘の向こう側でほの明るく太陽を透かしている雲の群れを見上げていると、桜井が首をかしげた。

「明日も降るかな」

「あー天気予報どうだったっけ」
「晴れんだろ、今日雨なんだから」
「神尾、天気ってそういうもんじゃないんだよ」
「俺、時々お前がかわいそうになる」
「なんだよ二人して!!」

神尾が勢いよく身体をまわして抗議し、傘から水滴が飛ぶ。冷てえ、馬鹿、と騒ぐ二人の横で、心地よいを通り越した疲れにあらがって足を動かしつつ、もう一度空を見た。


あなたに求められなくても、いい。ただ、皆で、楽しく、必死に、テニスがしたい。
そのための熱だけは、決して絶やしたくはない。
明日も、明後日も。いつか必ずやってくる、終わりのときまで。
懸命に、懸命に。


(でも、届かないこともあるね)





20120331

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