doubt


体育館の脇にある小さな屋外トイレの裏で、桜井たちは着替えをする。狭い部室の中には、荷物も、自分の身体も、置いておくことはできない。あそこでは理不尽が渦巻いている。
桜井は切れた唇の端に、慎重に舌をはわせた。ぴりりと痛み、汗と血の入り交じった、生臭い味がうすく口の中に広がる。破れた皮が、傷の表面でふやけていた。むしってしまおうか、と舌先でそこをいじる。外気に触れた舌から、冷え冷えとした日陰の気配を感じる。

トイレ外壁の、埃っぽい白壁に背中を預ける躊躇はもうなくなっていた。皆そこに手をついてバランスを取りながら、器用に着替えをする。足元の黒い土は、建物の影にあるせいでいつも湿っぽい。細々と雑草が生えているほかは、何もない小さな土地。濃い茂みの先に更に塀があり、その先は公道だ。なぜだか古タイヤが数個転がっている。くたびれたロープが巻き付いているところを見ると、どこかの部が、トレーニングに使っていたものを放置したらしい。
桜井がそれを引きずってきて、腰掛けると、何人かが真似をした。そうして、自然と円を描くように配置される。一年生の人数には足りなかったが、譲りあう。決して近づいてこないものも、いる。それで、おさまる。
最初に比べて、タイヤの椅子には余裕ができた。定位置に座り込み、浅くあぐらをかくように膝を曲げた桜井は、背中を丸めて転がされたゴムの塊を眺める。そして、その一つに腰掛けて、ぼんやりと、空中に視線を投げている少年を、見る。

「水道、行かねえの、森」

到底やる気があるとは言えない上級生が部活を切り上げた後が、貴重な練習時間だった。管理がずさんな部室からこっそり持ちだしたテニスボールは、各自のラケットバッグの中にしまわれている。
そこからぽつぽつと帰るものがあって、学校側が定めた部活終了時間まで残るのは意外と少ない。もう、顔ぶれは決まり始めている。経験者だという神尾と、伊武。桜井も含めた経験者から積極的に学ぼうとする、体の大きな、石田。帽子をいつも取らない内村は、あまり熱心ではない割に、途中で帰ることもない。退屈そうな顔で、めちゃくちゃなフォームでラケットを振る。そして、この、森辰徳だ。

桜井はさり気なく、まだ制服に着替えていない森の体操着を観察した。例に漏れず、汚れている。
グラウンドに転がったためについた汚れであれば、まだ良い。どうとでも、ごまかすことはできる。しかし、靴跡がついた体操着をそのまま持ち帰るのはためらわれた。それで、擦ったり払ったりしてどうしようもなければ、水流につっこむ。
練習を終えて制服に着替えた面々は、汗で湿った白シャツのなかに見間違いようのない形を探す。あれば、ばさばさと、いじってみる。それでだめなら、水道で、乱暴に汚れを薄くする。今日も皆、投げやりな手つきで
シャツをひっつかみ、トイレの洗面台や、少し離れた水飲み場へ向かっていった。
その背中を、森が、そして桜井が、見送った。特に、話を合わせたわけでもない。

「荷物なら俺見とくよ?」

先程の言葉に、生返事にもならないような、曖昧な頷きだけを返した森に、返事は期待していなかった。ただこんな状況で、黙っていることには気まずさが勝り、口が動く。口角があがる。何が楽しくなくとも、笑う。
森もまた、どちらとも取れないような笑みをこぼした。体格が同じぐらいの彼の肩に、くっきりと写し取られた靴裏の模様が痛々しい。いかにも穏やな顔立ちをしていて、実際に、性格や物腰もそのようだった。好んで狙われることは少ないが、殴られてうずくまるものに、すぐ駆け寄る。そして、無防備な背中を、蹴り飛ばされる。
馬鹿だ、とは思わない。ただ、繰り返される実直さを見つめ続けるのは、多少苦しい。

森はようやく首を回して、桜井をまっすぐに見た。くろぐろとした瞳のなかに灯る理知の光が、彼を単なるおとなしい少年、では終わらせない。何度目かの認識を、桜井は再び繰り返す。
森は、会話にはっきりときり込んでくるタイプではない。押しに弱い、ようにも見える。しかし決して、右にならえの、愚かさもない。明らかに、自分と同じく、ある程度の客観性をもって状況を見ることに慣れている。桜井は、そう、とらえていた。
その森、が、今、桜井を一人にしておかない。
波打ち、うねる、不安の影が、押し寄せる。自分のなにかが、森を、そう、させているのだとしたら。
偶然であってほしい。たまたま、彼の腰が重くなっているだけ、疲れているだけ、そんな些細なことでいい。確率の、問題にしてほしい。
今は、目を合わせたくない。

けれど、そう自覚してしまったのだから、もう逃げられなかった。

「心配しいだよな」
「そうかな。ねえ、なにが?」

森はつぶやくように返して、それがちょっと冷たいぐらいに響いた。彼の顔からは、するりと、笑顔が抜け落ちて、ただ痛ましいものをみる、切実な悲しみがうっすらとひかれている。度々、そのような顔で、目で、見られていることには、気づいていた、が。
声音とは裏腹に、まなざしの、確とした理性に結ばれた静かな様子がもつ優しさは、桜井を含め、彼らが放り出された世界をほの明るくする。

その目は、いけない。
今、そんな目をしたものに寄り添われると、たやすく折れてしまう。歯を食いしばり、痛いほど、こぶしを固めて守ってきた、誰にも明かしていない、本当のこと。

俺は大丈夫だ。なんとなく。
俺は大丈夫、ではない。ごらんの通り。

「なんでも、ねえけど」
「そう」

それから続けられた、ひとりごとのような声に、はっと目を見開く。森は眉根をうすく寄せて、一呼吸分だけ、桜井を見つめ返した。やがて立ち上がり、手早く着替えを始める。

森があらわにした、気味の悪い色彩が混ざり合う痣と、健康な肌のコントラストが、桜井の目を奪う。彼の手で翻った白シャツがその痛ましい身体を覆い隠す最後の一瞬まで、まばたきもできない。
体格がいいとは言えない彼が、受け止めた、たくさんの暴力がそこにあった。
背中を向けた森がジャージを引き下ろす段階になって、慌てて、桜井は目を背けて、なんだかいてはいけないような気さえして、建物の日陰から躍り出た。

「……っ」

夕日に眩しく刺し貫かれて、桜井は足を止めた。反射的に強い光を遮った右腕の皮膚が、乱暴に制服の生地と触れ合って、痛む。


(そう。俺は、怖いよ。殴られることよりも、隠されて、気付けないうちに、手遅れになることが)


森。あの輪にいて、お前だけが、俺を疑う。





20120316

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