ゆめじ


「けんかでも、したの?」
森は電話越しにもわかる、懐かしい心遣いに満ちた声で問いかけた。久しぶりに連絡をとったというのに、こいつはまるで昨日も顔を合わせていたという調子で受け答えをする。顔を合わせない、声を聞かない日々が壁になることを許さない、受け入れない。森は途切れていた時間に目をつぶっている。それに甘えて、俺はうまくまとまらない説明を切り上げた。
さほど気持ちの悪くない沈黙が電波のなかで生まれる。

中学を卒業した直後までは一日とおかずに互いに電話をしていた。コートに誘えば、打ち合うこともできた。それが、さっぱりと、途切れている。あの日、から。

俺も、目をつぶってしまいたい。明日、深司に会えたら普段通りの顔をして笑いたい。けれど、いつもの続き、あの日の続きが、どうしても思い浮かばない。深司のくちびるが触れるまえの時間を、顔を合わせた瞬間からもう一度はじめられたらいいのに。
体を強張らせて、去りゆく背中を見送った。あれは、あれが、別れだったのか。さようなら、も、言っていないのに。

「……わかんねえ。けんかじゃ、ないけど」
「らしいね、なんか。ふたりはずっと、そんなことばかり言ってた気がする」
「なあ、深司、なにも言ってねえの」
「なにも、言わないね」

森の声音からはすこし嘘の気配がした。そのように匂わせる間や、声を使って、なにかを伝えようとする。そんな心遣いをされていると知ったのは、中学を卒業してからだった。

「仲直りしたらテニスしようか。久しぶりに、みんなで」
「……ああ、そうだな」

その後は、他愛ないことを話して、切った。森も俺も具体的にいつ、とかは言わなかった。学校が離れたやつとの約束がおぼつかないことに、俺も、そろそろ慣れてきている。
テニスが、俺たちをつないでくれる。学校が離れたって、毎日、会えなくたって。
中学のころ、ほとんどのやつと進路がわかれるって知った時は、こう思ってた。でも俺がいま、約束をきっちりしないのは、べつに、そういうわけじゃない。そう思ってるわけじゃない。
俺は、すこし悔しく、認めたくないけれど、そんな状況に慣れてきている。


テニスは、続けていた。当たり前では、あるけれど。そういう推薦で高校にいるわけだから。
でも、嫌でも気づいたよ。高校では、部活に打ち込むのが当たり前ってわけじゃないんだって。バイトの申請書を前に、どうにか理由をひねりだそうとしているやつに、誰かが適当で良いんだって、と、アドバイスしていた。
俺は考えて、考えてテニスを選んだはずだった。適当なんて、安い言葉で笑えない。
毎日の意味を、そこに賭けてる。コートのなかにある、そして、そこにしかない、研ぎ澄まされた空気を肌で感じて、生きてると感じたい。あそこで呼吸をしないと、腐っていく気がした。

テニスをしていない自分は想像がつかない。けど、不動峰の連中には、そういうのもいる。俺はすこし裏切られたような気分になって、でも、金のこととか、どうしようもないこともある。
面白半分で聞き出したバイト先をのぞきに行ったら、なんだか知らない顔をして、一生懸命にはたらいていた。全然かっこよくないユニフォームに、名札と、研修中のバッヂをつけてるそいつに、俺は話しかけられなかった。制服だけを変えて、あの頃と同じでラケットバッグを背負った格好を見られるのも嫌で、すぐに引き返したんだ。
俺だけが、ひきずっているみたいで恥ずかしくなった。テニスを手放したやつも、テニスを一番に考えなくなったやつも、いた。俺ができなかった決断をしたやつが、大人にみえた。好きなことを、好きっていうの、恥ずかしいって。おかしい、けど。

深司は一応、テニス部に入部したらしい。名の知れた進学校の、弱い部にいる。森も、そこに。
試合で当たるだろうかといったら、森は言葉をぼかして、そうなるといいねとだけ答えた。そうならないことを確信しているような声に、むかつかないではなかった。同時に、俺は、俺たちは、よくわかってた。団体戦は一人や、二人が強くても、勝てない。

定期テスト前は強制的に部活動が休止になるらしい。部活に金かけてる学校なのに、そういうところは、特別扱いしてくれない。でも、いくら成績悪くたって、部長は怒らない。橘さんも、怒らなかった。つーか、見てなかったんだと思う。勉強のこととか、そういう面では橘さんは転校生だったし、俺たちだって、橘さんに、テストのことで頼ろうなんて考えたことがなかった。
今、俺のラケットバッグには、二年分の過去問題が、入っている。これだけやっておけば滅多なことにはならないって、いわれた。
それなら部活ができるか、テニスができるかといったら違って、周りの奴らはカラオケとか、遊んでいる。デート、とか。公営コートやストリートコートに誘っても、あまり乗り気じゃなさそうだったから、もうやめた。俺、あいつらが勉強したがってるの、わかってるし。疲れないで帰って、勉強するんだって。文武両道、とか。勉強できることが良いとかじゃなくて、成績が悪いのが、カッコ悪い、って。

テニスのことばかり、馬鹿みたいにずっとずっとテニスしていて、勉強なんてしなかったあいつらが、ここにいたらな。
わかってる。わかってるさ。あいつらだって、テニスばかりじゃなくなってる、なんてこと。
俺、だって。


放り投げられた時間をつぶすって面倒くさい。それで、埒もないことを考えながら、ぶらぶらとインストアライブ目当てに遠くのCDショップまで足を伸ばしている。見慣れない街並みのなかに惹かれるものも、特にはない。制服が違う連中の間を縫うように道を行く。

演るバンドの、なにが面白いわけでもないよ。生演奏ってすごい迫力、とかいうけれど、ライブハウスでもなんでもないとこで、音がスカスカと空気の中にふっとんでいくのは情けない。騒がしさにつられてやってきた、ロックとか、聞きそうにないやつらの醒めた視線のなかで演奏し、CDを売るバンドを、俺は観に行く。
ベースを、褒めてたんだ。深司が。
それで。
俺は知らない道をだらだら歩いている。


人ごみが信号待ちをしている背中に近づきすぎないように、すこし脇によって青を待つ。部活が終わってから歩く街と違って、まだ明るい中に制服のグループが点在していて妙な気分になった。しかも一人でいるやつなんて、俺ぐらいで。

間延びしたメロディが人の群れを誘導して、ぞろぞろと前に進んでいく集団のなかに足を踏みいれる。のたりのたりとした歩みがうっとおしい。集団で道幅いっぱいにひろがっているやつらを押しのけて進みたい。高い笑い声がヘッドフォン越しに、障った。
もう始まりそうな時間なのに、目指す店はまだ先だ。こいつらがのろのろのろのろ道占領して歩きやがるせいで、なにもかも、上手くいかねえ。遅い遅い遅い。
別に遅刻したっていい、けど。もしかしたら、来るかも知れない。
そんな予感が、足を急き立てる。

車道側から追い越してやろうとして、横に視線を振った。タイヤが巻き上げるぬるい空気が、それでも今俺がいるところよりは早く流れている方へ。埃っぽい風が、ふと強く通る。


制服の細い体が俺の横をすり抜けた。
ラケットバッグを背負ったブレザーの襟から、シャツがすこしのぞく。そこらへんにいる高校生と、同じ制服。早足で、一人で歩いている。襟にかかった長い髪が、歩みにあわせて割れて、いやに白い首すじが目についた。
去り行く背中を目で追う前に、口が何かを言う前に、手が、伸びる。

ほとんど確信に近かった。後ろ姿だけで、歩き方だけで、わかるんだ。幼なじみで、中学三年間一緒にいて、ずっと横でテニスやってたってのは、そういうことなんだぜ。深司。

「待てよ」

振り返った、あいつの、刺々しい目がおおきくなる。
驚いている。俺も深司も。車道の隅で立ち止まった俺たちを、車が迷惑そうに迂回した。
勢いよく振り払われた手が痛み、体が熱い。唇がふるえて、なにか言ったらしい。耳元で歌い続けるボーカルがうるさくて、自分の声すら、ろくに聞こえやしない。
いいか。それでも。声は、話は、これからゆっくり聞く。
うっすらと赤くなりはじめた手でつかんだ深司の手首は、しばらくすると逃げるのをやめた。引きずられるように俺についてくるあいつが、痛い、と低くつぶやく。


目当てのCD屋も通り過ぎて、小さな路地に折れる。どこもかしこもやかましい街に背を向けて、薄暗く冷えた空気の中で立ち止まる。闇の中でうずくまっていた猫が痩せた背中をくねらせて消えた。アスファルトの舗装がところどころ崩れて、雑草が伸びている。

「もう、いいでしょ。離して」
「そんな強く掴んでねえよ」

深司は無言で、自分の手首を顔の高さまで持ち上げて見せた。赤く、なっている。俺の指の跡が残って、ぼんやりと。
別に、罪悪感とか、ない。ああ、もっと強く、爪でえぐってやればよかったよ。あの日お前がしたみたいに、いつまでも長く後を引くように。
責めるような顔をにらみ返す。日陰の中で、深司の目は黒一色のビー玉のようにつやつやと濡れている。

「なんでシカトすんだよ。電話もメールも」

なあ、あの日の続きってどうやって始めればいいんだ。
俺はもっと別のことを言わなきゃならない気がした。なのに、深司が眉根をぎゅっとよせて、唇を噛んでいるのを前にしたら、ついなじる言葉が出る。血がのぼってくるのを感じる。
なにもいわない深司を突き飛ばして、薄汚れた壁に押し付けた。深司のかわりに、ラケットバッグががしゃりと騒ぐ。
背けられた顔を、細い顎を、掴まえて、強引に唇に歯を立てた。
小さなうめき声を吸い取るように、どうにか唇をあわせる。

「なに見てんだ、深司。……目、悪くなったんじゃねえの。お前の目、あんなに、良かったのに」

俺が何をするか、お見通しみたいだったあの目はもうないの。どっかいったの。お前のこんな顔見るのなんて、すげえ久しぶり。

「こんなの、いつか醒める、悪夢みたいなものだよ。なんでこんなことするの」
「醒めるとか、なに。相変わらずわけわからねえのな。お前を好きって思うのは、別に夢でもなんでもねえよ。俺二ヶ月ずっと考えてたよ。なんでって、好きだからだよ。お前だって、そうだったんじゃねえの。違うの」
「……神尾は俺のこと、絶対に好きになったり、しないよ」

目、悪くなったんじゃねえの。
深司は、俺の気持ちを否定したけれど、自分の気持ちを、違う、とは言わない。それだったら、いいかって。俺は少し大人になったらしかった。言いたいことを言って、すっきりしたせいも、あるか。
腕の中で、居心地悪そうな深司の髪に指を差し入れる。ぐっと肩に押し付けるように引き寄せてやって、ようやく、体温が混ざる。同じ言葉を繰り返しながら聞いた、小さく鼻をすするような息遣いが、耳にくすぐったかった。

俺はしばらくそのまま、深司の髪をいじっていた。前よりも少し短くなっているけれど、大切に手入れしているんだろうってことは分かった。指先にからめてもするりと落ちていくそれから、ほのかに匂う甘さは中学のころと変わっていない。うすい汗のにおいと混じり合って、深司の匂いになっている。
静かな呼吸を繰り返していると、深司がここにいるって実感が、じわじわと体中にめぐった。
なんだかため息をつきたくなるような気持ちになって、そのかわりに、髪をなでていた手を肩の方におろす。

俺の手の影がなくなって、深司の白い肌にオレンジの光が一気にあたった。深司は視界に切り込んでくる夕日にはっとしたように視線を投げて、握り合っていた手に力が入った。なんだ、と思って俺も同じ方を見る。

そして、俺も息を呑んだ。

「深司……」

口をついて出た意味のない呼びかけに、ぴくりと指が反応した。逃げようとするそれに追いすがって、さっきよりも強く握りなおす。指を絡めて、しっかりと。
骨ばった指同士をいくらすりあわせても、力が抜けていきそうだった。歯を食いしばらなければ、情けない声がもれそうだ。伊武は水っぽい目で太陽に照らされる路地を見つめて、そんな俺を見ていない。けれど、触れ合う場所から、感じる体温や、街のノイズに溶けていく互いの呼吸から、考えていることがわかってしまう気がした。

沈んでいく夕日が、背の高い建物の間に立つ俺たちをまっすぐに照らしていた。さっきまで歩いていたとおりにつながる、四角く切り取られた世界への出口がまぶしく滲んでいる。
あそこまで、何歩、あるのだろう。
俺は夢中で深司の手を引いた。二人で話ができる場所を探して。でもそれは、いつも使うファーストフードとか、公園じゃだめだって、どこかで思っていた。俺の部屋や、深司の部屋。そうでなければ、人目につかない、どこか。例えば、ここ。

こんなところでしか、俺たちは話せない。抱き合えない、キス、も、できない。手をつなぐことも、多分。そんなことでさえ、許されていない。
いつだって怯えるんだ。太陽の、今、俺たちを赤く照らし出している、あの光が差さない場所を探して、逃げる。

だから深司は、俺からも逃げたのかもしれない。あの日、俺が、びっくりしたから。動けなくなって、なにも言えなかったから、深司は背を向けた。
好きって、それだけ言うことだって、おかしい関係ってあるよ。好きな人誰って言われて、本当に好きなやつの名前を言えなくなるとか、そういうこと。
誰の前でも、俺たちは、友達でしかいられないって、思ってしまうこと。
当たり前が、つらくて、怖い。

深司の目はだんだんと伏せられていって、ついに、夕日から目を逸らして、下を向いてしまった。黒い髪に、白い頬、首すじに、夕日が容赦なく照りつける。光を嫌がるように顔を背けて、深司はふるえている。

「やっぱり、無理。こんなの無理だって、最初から、わかってたし。神尾だって、そうだろ」
「嫌、だ」

テニス好きだって普通に言いたい。お前を好きだって、普通に言いたい。
暗い道に、陰の中に、嘘で塗りつぶす日常に、お前を引きずりこんででも。

切れ長の、目尻のはしに溜まった水気を舐めとりながら、俺は目に痛いほどの光に背を向けた。
どんなところでも、お前となら、呼吸ができる。そんな気がしたんだ。





20120227

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