めつぶし
俺を三年間悩ませ続けた教科書を、棚から抜き出して放るのは楽しかった。そいつらはうっすらほこりっぽいのも、最近まで頻繁に見ていたものもあって、でも、もう全部用はない。ごちゃ混ぜにして、捨てるんだ。全部捨てる。
こういうのって気分いいな。
足下に積んだそいつらをつま先でつつきながら、俺はベッドに腰掛けている深司を振り向いた。あいつの膝の上に乗っている雑誌は、ちょうど俺が最近聞き始めたバンドの特集で開かれていた。
そのこと話したっけ。偶然。それとも。どっち。
「早くやりなよ。そうやって浸ってるといつまでも終わらないよ」
深司はちらりと片づけの具合を確認して、妹に言い聞かせるような口振りで言った。
おまえはもう捨てたの、と聞くと、だいたい、という。
そうやって言葉をはんぱにして、本当のことを、きちんとしたことを教えないのは、ずるいと思う。
だって深司のだいたいって、俺の、この片づけの残りよりずっと多くを残して、でも深司がだいたいって言ったら、それはそうなって。それってずるい。
「だから、手を動かしなよ。神尾はさ、そんなこと言ってるから子どもなんだよ」
「なんだよ。おまえだって子どもだろ」
俺がそう言い募ったら、深司は当然、いつもみたいに少しあきれた顔をすると思ってた。
雑誌に落とした視線をあげずに、そうかもしれない、なんて言って、それっきりになる。今日のおまえは変だ。
俺たちはつい先日中学を卒業した。実感はあまりない。
実感、を、手に入れようとして、俺は教科書を捨てている。深司に言われたから。片づけでもすればって。
でもそれって、実感って、こんなことで手に入るもんなの。
高校入学までの春休み。
俺は中学生でも、高校生でもなくて、きもちわるい。たまらずに俺は深司を呼びつけて、今までどおりの時間が途切れずに流れることを確認したりする。らしい。俺は深司を手伝ってもらうつもりで呼んだんだ。深司が言うことは、わからない。
雑誌や漫画ばかりを詰め込んでいる本棚から最後の教科書を抜き出した。家庭科や音楽なんかの薄っぺらくて大きなやつら。
学校で音楽を習うなんてもうないのか。俺が行く高校は、どうだろう。やっぱりスピーカーから曲の最初を流して、曲名と作曲者を書くような試験、あるかな。あれ、わかった瞬間は、うれしかった。
思わず口に出してしまって、その場ですごく叱られた。
深司は、平均点の底上げに貢献したってことにしておけば、とか、あいつにしては珍しく慰めてくれたけれど、俺は本当に恥ずかしかったんだ。
杏ちゃんが、二つも離れた席から俺を振り向いて、まわりのやつらと同じように、笑っていた。
それがどれだけのことか。おまえには分かんねえよ。
俺がだんだんいらいらし始めるのと反対に、深司は何でもないような顔をしていた。その顔のままで、わかるよ、とため息をついた顔がなんとなく悲しそうだったから、俺は気がそがれて、その日はアイスをおごった。ような、気がする。練習に明け暮れていたから、俺は毎日のことを思い出せない。こんな苦いことだけしっかり覚えている。
そう。深司はたまにそうなんだ。たまに。
なんでもないようなところで急にへこんでる。俺にはよくわからないことが多かった。だから俺は深司が落ち込んで、なんだか寂しいようなきついような顔をしているときにかける言葉がない。
俺が困って、ぜんぜん違うことを言って、気を逸らそうとして、深司がそれに助けられた、ふり、とかしてるのは、なんとなくわかっている。けど。
ああ、でもな。
覚えてるよ。この、保体の教科書につけた折り目のこと。あのとき暗く笑ったおまえの気持ちなら、今はわかるよ。
俺はずっと、深司の目がうらやましかった。
スポットにかかる相手の少しの引きつりに気づくなんて、俺は一緒のコートに入っていても、できなかった。一秒後か、そのもう少し後の世界を見ているような、そんな感じ。相手の腕が固まる、予兆を見抜く目。
ずるいよな。俺には、そんなの見えない。
おまえの目はいいよな。なんでも見えてそう。
そう、だいたいのことはね。
おまえは、笑ったよな。
保体の教科書の、あの、人の皮を一枚はぎとった図をのぞき込んで説明を要求したときだった。深司はいくつか筋肉の名前をあげて、俺に腕を曲げ伸ばしさせながら一応説明しようとしてくれた。石田や橘さんの口からも、その筋肉の名前は聞いたような気がする。覚えられないといったら、さわって、意識するだけでいいんだと、二人は俺の不勉強を許した。
そのときも、それからも、俺はなにも知らなかった。それでよかった。言われたとおりに、筋肉の場所は触れて覚えた。
あいつの話も最後は、「見ればわかる」に落ち着いた。けれど試合中に、そんなの、気づかないんだ、俺。俺の知りたかったことはなにもわからなくて、わかったのは、深司がなにか俺にはないものを授かってるってことぐらいだった。
そのひとつが、多分、目なんだ。
深司の黒くてきっついそれが、試合中以外にもふしぎに誰かの隙やゆらぎを読み取ることがあって、俺はよくその対象になっていた。一番近くにいるんだから、よくわかって、当然だって、皆が言った。
でも、俺はさ、わからなかったんだ。
深司が俺のことわかっているのと同じぐらいには、深司のことを、わからなかった。
深司は、そんなこと気にしなかった。
でも、ずっと、うらやましかった。
テニスに限らなくても、俺のこころを見通して先回りしてぼそぼそ言葉をこぼして、それでいて素知らぬ顔をする深司が。
でも最近知ったよ。わかったよ。おまえの目ってきついんだ。痛いんだ。見たくないもんも時々見えるんだろ。
見たんだ。俺も。
俺のすべてを否定されるような、終わりの予兆を。それから、ずっと、そいつの一番近くで、見ていた。そして、終わったんだ。
ああ今ここで終わるんだなって予想はジャストだった。狂わなかった。正しく、そのとおりに終わった。
深司。俺も見たんだよ。ひとのこころを。
杏ちゃんの、あるかなしかの俺への心がゆっくりかげっていくのだとか、そういうのを見るのはとてもきついことだった。俺、杏ちゃんが細い首を傾けて髪を揺らすときがどんな時だかわかるようになった。杏ちゃんの眉から、少しだけ疲れていそうだとか、そういうのも、わかるようになった。つやつや光るくちびるがいくつか言葉をのみこんで、別のことに取り替えるのだって、見えた。そしてそれを一生懸命に隠そうとする献身まで、わかったんだ。俺の目で。
薄くてちいさな肩がふるえて、時々首すじにぐっと力が入って、脱力して。そういう繰り返しを、杏ちゃんは辛そうに、もどかしそうに静めようとしていた。杏ちゃんはいつもいつも本当にちゃんとしていたのに、その時に限ってハンカチもティッシュも取り出さずに、ただ俯いていた。俺のバッグには汗くさくなったタオルしか入っていなくて、それと、一応替えのジャージが入っていたけれど、そんなの、杏ちゃんは絶対に受け取らない……。
ちがう。
杏ちゃんはもう、俺の手からなにも受け取らない。それはわかりきったことだった。
なあ。わかるってなんでこんなにきついの。おまえはずっとこれに堪えていたっていうの。あんまりだろ。こんなのは。
だから俺はおまえが我慢してたのがつらいんだ。悔しいんだ。何でも話してくれると思ってたのに。
なにが、だいたい、なんだよ。
深司は言葉も挟まないで、保体の教科書を脇において椅子をぎいぎい鳴らす俺のことをじっと見ていた。
なにが、見える。俺のこころは、おまえに、どんなふうに見えてるんだ。子どもだっていうのか。馬鹿だって。でも、俺だって、言わなきゃって思ったんだ。
俺はのどの渇きを感じて、ローテーブルにあるグラスに手を伸ばした。中身は二つともあまり減っていない。その片方に手が届く、ところで、深司が急に立ち上がってグラスを取り上げた。俺がとろうとしていた、方を。
「つぶしてあげようか。気にいらないなら」
グラスは、俺の勉強机の上にコツリと音を立てて、おろされた。
深司の、すこし冷えた手が俺の顔をすくい上げる。耳の裏に滑り込んできた指の感触に身震いしても、深司は手をはなさなかった。しっとり湿った皮膚の圧力がきちんと骨のかたちにならぶ。軽く力を入れられると、俺はあらがいようもなく上を向かされた。
そこで、深司の、真っ黒な瞳に出会う。
「俺の片付け、これで最後なんだよ」
両方の親指を瞼に置かれて、俺は初めておびえた。その動きは目を閉じることを強制させる。
目玉に感じる力、が、こわい。直接的な暴力の予感に体がこわばる。
この指に血は通って、いる。それなのに、こんなにも、俺の予想を超える。
深司は目をつぶそうかといった。
本当に、このまま親指を差し込まれたら。俺の、目は。
潰される。
しんじ、と動かそうとした口に、あいつの、柔らかいものが触れた。俺の口の中にあった、あいつの名前を呼ぶための空気まで吸いとられて、ちいさい水音が立つ。
ぬれたくちびるの間近でささやかれた言葉は聞き取れなかった。不明瞭な発音。しめった吐息だけが俺の肌にさわる。
深司の長い髪が頬に落ちてくる気配がして、その直後にまた、キスされた。やわく噛むようなそれは、でも、怖くはない。添えられた指の一つ一つ、ぶつからないのに感じる体温が、知らないやさしさでいっぱいになっている。
俺の知らない深司が、そこにいる。俺の目を、くちびるを、塞いでいる。
「じゃあね、神尾」
視界を自由にできない俺は、せめてなにか言おうとした。濡れたくちびるや、口の中までが、飛び込んできた空気の冷たさに怯んで縮こまったけれど、言おうとしたんだ。
あいつを引き止められる、なにがしかの、魔法じみた言葉を必死に探して。
でもそんな言葉、どこにもなかった。見つからなかった。なにもなかった。
深司が俺を解放して、部屋から飛び出していくまで、動けなかった。翻ったあいつの黒髪が、安い蛍光灯のぼやぼやした明かりの下でも、きれいだった。そんなことばかり、思う。
目玉に受けた圧迫のせいか視界は奇妙ににじんでいた。光が拡散する視界は現実感がない。遠くで、玄関のドアが、閉まる音がする。反応して、びくり、と唐突にはねた体が、コントロールから外れていく。腕が、机に置かれたコップを倒した。転がり落ちた滴がぱたぱたと音を立ててフローリングにはねる。水浸しになった教科書が、じわりと色を変えて、波打った。
俺は動けなかった。おまえの熱が薄れていくくちびるを噛んで、なにかをこらえるしかできなかった。
わからない。わからない。おまえのことが。
俺になにをした。深司。
俺の前から、伊武深司は姿を消した。
以来、あのきれいな髪が揺れる横顔を、ずっと探している。
ずっと。俺は、そういう日々を送っている。
20120205
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