お迎えですよ。
校舎内の湿度はひどく高く感じられた。熱を内包した生白い体がしきりに空気をかき混ぜている。ゆっくり揺れるカーテンや翻るスカートの裾からは軽やかさが薄れて久しく、空は引きのばされたビニール袋に似た雲が浮かぶ。ぼけた青さはみすぼらしい。
この晴天は梅雨の切れ目が束の間やってきたのか、はたまた梅雨明けなのか。朝食の味噌汁をすすりながら眺めた天気予報さえ、歯切れ悪く言葉を濁していた。
安定、平穏、変わらない日常。
大人になることがどのようなものかは知らない。
書棚に並べた古い小説、その中から溢れる、青春という時代への惜しみない愛情を、時に皮肉混じりのそれを、森がそっとページを繰る度に訴えかける声は、絶えず、やまない。そのことからのみ、森は今を含めたこれから先の数年間が自分にとってかけがえのないものになることを、覚悟した。
なればこそ。
肩にひっかけたラケットバッグをゆすりあげる。教材も図書室の本も入ったバッグは重く身体にのしかかっている。
上履きの裏にべたついた湿気を覚えながら、森は放送室へ向かっていた。少し、急いでいる。
机の脚が床とこすれて、そこかしこで耳障りな音を立てていた。
清掃当番を割り当てられた生徒達が乱暴に机を引きずって、一刻も早く自由になろうとしている。形だけの清掃活動は埃を舞いあげるだけだったが、誰もそんなことを気にしない。日常の決まり事が守られている、ように見える。そんな空気を演出するために掃除当番は忙しく動いていた。
どの教室でも同じ光景が繰り広げられる。
彼らの労苦をねぎらうように、各教室のスピーカーからは勢いのあるギターが熱っぽくメロディを引っ張る曲が響く。知っている生徒の方が少ないだろうバンドの曲を延々とかけられる程度に、放送委員の自由は保たれている。言い換えれば、放任されている。それが指導教員の好意ではなく単なる無関心によるものだ、とは、内村の弁。マイナーなロックバンドでスピーカーをふるわせ続けるパートナーの顔を思い出して、森は少し気分が明るくなる。
掃除が終わるのを待つものや、部活動へ向かうものでごった返している廊下の外れまで来たところ、放送委員の日誌を抱えた上級生に出くわした。
「先輩」
なにやらこちらも急いでいるらしい横顔に、ためらわず声をかける。
「放送室なら、代わりに持って行きますけど。それ」
「いいのか?」
「はい」
彼は受験のため、進学塾に通っていると言っていた。時間がなかったのだろう。目に見えて喜色が浮かんだ顔を見て、森もほほえむ。
他学年の生徒は上靴の靴底が違うからすぐにわかる。むやみやたらに至近からの視線が飛んでこないのは、ただ森の前に立つ少年が三年生だからだ。ほこりっぽい廊下にはそういう規律が行き渡っている。スカートを折るなだとか、携帯の持ち込み禁止よりも、よほど遵守されているに違いない。
ただ、ごくわずかの例外はいる。森は首筋にその視線を痛いほど感じながら、振り返らなかった。
「じゃあ頼むよ。悪いな」
「俺も今行くところだったんで」
黒い日誌を受け取ってうなずいた森に、少年は軽く手を振って背を向けた。出会い頭にもかすかに感じた香水の気配が再び鼻先にゆれ、消えていく。彼は制服を着崩していなかった。上履きの踵も踏んでいない。きっとこの香りも、じきに校内ではつけなくなる。
もう急ぐ必要はなくなった歩みを再開しながらここまで考えたところで、肩に衝撃が走った。
「神尾……」
森の肩をいささか強すぎるほどの力で叩いた神尾は、まったく悪びれない様子で、むしろ森の方がなにか悪いことをしたかのような顔をして立っていた。神尾は時々、誰彼となく露骨に甘えたな振る舞いをする。
「森、なんであいつと話してんだよ」
「委員会同じで」
「は? ……あのよ、平気なわけ。お前」
神尾の大きな目は感情をよく表した。予想通りの反応が返ってきて、感心さえする。
森は向かい合う相手へ負の感情を向けることが苦手で、意識的に避けてさえいる。不誠実かもしれないとは思えど、顔の筋肉すらその手の感情への反応は鈍い。
神尾が舌打ちでもしそうな勢いで唇を曲げたから、森は肩をすくめてみせるしかない。
「あの人すぐ辞めちゃったし」
「でも、殴られてる俺ら見て、放っておいたやつだ」
とりなす言葉は一蹴された。神尾は上級生が歩き去った方向をきつくにらんで、同じ強さの目で森を刺す。
「俺らがうずくまってる横で楽しそうにラリーしてたやつだ。そうだろ」
事実だ。
あの上級生は、三年の春、一ヶ月と少しだけ、森たちと共にテニス部に籍を置いていた。周囲で行われるしごきを暇つぶしのように眺めながらも、決して手は出さずにいた少数派の一人。思えば彼がさっさと退部してしまったのは、エスカレートする暴力になにか勘が働いたのかもしれない。騒動に巻き込まれれば、受験に響く可能性がある。
面倒なことにするなよ。
一回だけ、新入生を痛めつける友人たちに笑い混じりにかけた声が、彼の最初で最後の忠告だったのか。数日後、彼はロッカーから私物をすべて引き上げた。校舎外周を走らされていた森と内村は下校しようとしている彼に捕まって、未開封のグリップテープを数パック押しつけられたから、よく覚えている。もう使わないから、と言った彼にとって、テープを渡す相手はテニス部員なら誰でも良かった。善意も悪意もなかった。人は無関心な相手に対してはいくらでも笑えるのだと、そのときに知った。
別れ際に彼は「がんばれよ」と、手を振った。先ほどとまったく同じ動作と表情で。
「忘れられねえよ。お前が吐いてるの見て、あいつ笑ってた」
「やめてよ、神尾」
半袖の白シャツから伸びる神尾の腕が、力んで少しふるえている。白くなった拳に走る血管の青さを眺めながら、森は静かにさえぎった。半年以上過去のこととはいえ、森にとっても平静に聞いていられる話ではない。
「でもよ、普通顔も見たくねえだろ? 話したりしねえよ。おまえがあいつになんか言われてんのかって、俺は……」
「別に、そういうのじゃないよ」
必要なことを伝えるだけ、友好につながるなにかの有無に関わらず交わした会話に固執されると、戸惑ってしまう。
神尾はそれでいいのだろう。彼は人なつこいが、相手を見ている。選んでいる。
おまえ、いらない。もういい。
そんな風に関係を切り捨てられるほど森は楽観的になれない。周りを好きなもので囲んで笑っている幸せは見送ることにしている。
顔も見たくない、だなんて、簡単に、口走って。
神尾に嫌われるとそういうこと言われるのかって、俺は、思うよ。俺は多分、言えない。本当のことなんて言わない。
許してね。
好きでもないのに笑ってごめんね。
好きなのに、すごく嫌い。ごめんね。
許してね。
「おー、早く行こうぜ」
「ごめん。ちょっと放送室行くから。先行って」
ラケットバッグをそれぞれ背負った桜井と石田が駆け寄ってきた。近づいたのと、同じ歩数を遠ざかり、森は手にした日誌をひらひらと振った。黒い厚紙に遮られた視界の向こうで、神尾が未だ不服そうに唇を少しつきだしている。
なにか言葉を残すべきか迷い、結局やめた。桜井が何むくれてんの、と聞いている。その横では石田が静かに耳を傾けようとしている。多分、それで十分だろう。桜井も石田も、慣れている。
背筋を伸ばして歩くと、乱暴に突かれた肩が少し痛むようだった。
放送室は校舎の最上階、グラウンドを一望できる場所にある。視聴覚室など、部活動ではあまり使われない特別教室が集まる一角だ。生徒の姿は少ない。
使用中、というグリーンの表示が点灯している下のドアを、森はそっと押し開けた。
手前には中央に机と椅子が向かい合わせで据え置かれ、マイクスタンドや譜面台をはじめ、正常に動くのかわからない機材が壁際に立ち並ぶスペースがある。さらにその奥が放送室の命とも言うべきブースだ。大きなガラス窓で確保されるはずの見通しが、機材やCDの棚でほとんど遮られてしまっている。
それでも、ブースの椅子をゆらゆらと回しているらしい丸まった背中はわかった。小柄な体躯は後ろ姿でもすぐにわかるほど見慣れている。
「どーぞ。お疲れっす」
「お疲れさま」
「……っなんだ、森かよ」
控えめにしたノックに答える声は強ばっていて、内村のものではないように聞こえた。そろりと押し開けた扉の向こうで脱力した身体が森に向き直る。
帽子の下からこちらを睨んでいる瞳には、拭いきれない疲労の色がのぞいていた。
やはり、と思う。
「見つけたから、預かってきた。はい」
「ん。……?」
森が差し出す日誌を反射のように受け取った内村は、それからはじめて奇妙な顔をして友人を見上げた。内村が椅子に座っていることによる高低差で、森はゆるやかに視線を落としている。そのたたずまいに滲む優しさらしきものに、内村は帽子の奥の目をぱちぱちと居心地悪そうにした。ふいと顔を背けて、椅子をきしませる。
内村は来訪者の顔を思い浮かべては緊張していたに違いない。
窓を開けていても蒸し暑く、そしてごく狭い面積。出入り口は一つしかなく、おまけに人気のない空間。
そこに元テニス部の上級生が委員の日誌を携えてやってくる。一人で待っている時間はどれほどか長かっただろう。それに比べれば、何ということはない。苦手な上級生に声をかけることも、神尾の不機嫌でさえも。
「……気、遣いすぎじゃね」
「内村を迎えに来ただけだよ」
「おまえのそういうとこ嫌いじゃねえよ」
ため息に似たささやかな笑いの後に続く言葉を聞きながら、森は内村の顔をのぞき込もうとして邪険に押しやられた。思わず笑うと、額にぺしりと衝撃をもらう。
「やっぱ嫌い」
内村は帽子をいじりながら、そしてその手をつかって森の視線を巧みに遮って時計を見上げた。もう清掃時間も終わる。定められた時間内で、きっちり曲を流しきるのは内村のこだわりだ。ほかの委員のようにあわててフェードアウトさせたりはしない。放送ブース内にも静かに流れている曲は、ちょうど、後奏を終わろうとしていた。
今日も成功。
そういう瞬間の内村の、得意な顔を見られないのは少し残念だった。あまりからかわないようにしないといけないかもしれない。少しのぞいている耳たぶがうっすらと赤いのを見るのも、おもしろいけれど。
プレイヤーのスイッチを軽く叩いて、内村は立ち上がった。日誌は無造作にラケットバッグへ放り込まれる。
ごそごそと荷物を整えてから森を振り向いた顔には、もうどこにも、疲労や、緊張の陰はない。歪む口元と、不敵にぬらりと光る瞳。
「っし、行こーぜ」
二人は連れだって放送室を後にした。ラケットバッグが肩に食い込んでも、その足取りは軽い。
内村は森が好きな小説家の本を五分ももたずに投げ出すし、森も内村がこだわるバンドの良さを問われたら首を傾げるしかない。けれど、このときに、過ぎ去ったことを一番に惜しまれるこの時間に対して、森は精一杯の努力をしようとしている。
それは知らない価値観に触れ、音楽を聞いたり、放送機材の使い方を覚えることだ。そしてなにより、仲間と共に、テニスをがむしゃらにやることだ。
その正しさを、信じて、疑わない。
20120129
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