福音


「7ー5、ウォンバイ内村、森」

ネット際に歩み寄ってくる桜井と石田から逃げるように、内村の足は一歩引き下がった。背後から近づいてくる森の軽い足音からは疲労よりも勝利の高揚がにじんでいる。
接戦を切り抜けた体が酸素を求めて大きくあえぐ。乾燥し冷えきった空気をいくら吸い込んでも熱は逃げていかない。緊迫から解放されたはずの神経は未だ鋭敏に澄まされていて、指先を巡る血の流れすら感知できた。激しく打つ鼓動までをあまりにはっきりと捕らえている。勝利を貪欲に追い求めた体を動かすポンプ。その脈動。

帽子の陰から周囲を見回すと、視線が一斉に飛び込んでくる。森がジャージの上着をすこし引っ張って、試合終了の挨拶を待つ石田たちの元へ誘う。
「内村」
促す声は審判をつとめた伊武のものだ。彼は形式的な礼儀をあまり重視していなかった。部員同士の試合の時は特に、その傾向が強くなる。その伊武でさえ、試合前と後の挨拶をする段取りだけははずさない。当然、自分が審判の時はプレイヤーにそれを求める。
「なにしてるんだよ。早く整列して」
ルーチンからはずれ、自分を煩わす者への不快が徐々に伊武の表情ににじみ始めている。隣で立ち止まった森の小さな声がさらに内村を急かす。
挨拶を軽んじるな。次も気持ちよく戦うために。
そう教えた男はもうここにいない。
彼が引退して二ヶ月がたつ。

橘がもつ価値観において、内村は一端の地位を占めたかった。彼が強いと見なすもの。彼が正しいとするもの。
橘は己の正解を信じて、疑わずその答えをなぞるように行動しているようにみえた。
停学処分をおそれず顧問に抗議した。押し寄せる暴力を振り払った。そのためなら、拳を用いることをかけらも躊躇わなかった。彼の中には一つの解がある。困難のなかにあって己を恥じずに顔を上げるための答えを持つ。
そんな橘に認められる価値をもちたい。
強いテニス、強い意志。なにか正体の見えない暗闇を抱えて立つ背中。追いかけ続け、ついに届かないまま去った後ろ姿。

俺はまだできる。できる、できるんだ。見てくれよ。俺の全身全霊。あんたに教えられたテニス。俺は強くなっただろ。
見てくれよ。

神尾や伊武、少ない部員からさらにより抜かれた精鋭、彼らに指導を施す背中に向かい叫ぶことは許されなかった。わめき散らして注意を引くのではいけない。ただ一つの強さの証を見せつける、それができる者だけ、橘の視界できらめきを放てる。
彼がようやく振り返った時に石ころのような自分を見せたくなかった。なにか特別なものになりたかった。神尾たちへの羨望、嫉妬、惨めな自分への嫌悪、よどむ薄暗い感情を糧にして死にものぐるいで走る姿は醜かっただろうか。

内村を衝き動かす衝動の源は、熱い胸をもっていた。全国大会において不動峰の敗退が決定した試合後、コート整備をこなそうとする橘に群がった二年生たちはあらっぽく抱擁された。日差しのにおいと橘の体臭、自分の涙がいりまじったものを鼻孔いっぱいに感じながら、内村は熱い胸に頬を寄せる。
そのときに聞いた、ふるえる筋肉のかたまりが発する音を忘れられない。激しい運動によって早くなった脈動。全身に熱い血潮を送り出す器官が、橘のしっとりと湿った肉体を突き破らんばかりにたたいている。橘は内村を抱くときに、決まって後頭部にしっかり腕を回した。かたい皮に覆われた手のひらがそっと耳元を押さえるようになって、内村は橘の血流と鼓動を耳から直接流し込まれるような感覚に陥る。彼にしてみれば単に帽子が落ちないようにという配慮だったのかもしれないし、他の誰にでも同じようにしているのかもしれなかった。肉と軟骨のやわい構造物が彼の手の中でひしゃげる。そうして、抱擁している相手の耳をふさぐような真似を軽くやられた時に感じたのは、恐怖と焦燥だった。

耳から注がれた呪いの音を、内村は断続的に聞いている。あのとき、逃れがたく存在を主張した橘の心臓がすぐ隣にあるように、彼がテニス部を去った今でも時折内村の耳をふるわせる。

その音を聞く度に内村は強烈に思い起こす。自身が枷となってその翼を広げきれなかった橘のことを。重荷でしかなかった自分たちの姿。最後までそれを責めることなくチームとして一歩でも上に進むためのオーダーを練り続けた橘の、認めたくない気持ちはあるが、苦悩。
それらすべてが終わった瞬間の彼の激しく脈打つ心臓の音にはなにか安らかなものがあった。ゆっくりと繰り返される呼吸に内村たちには決して与えることが出来なかった安寧があった。その音は内村たちの弱さを静かに肯定した。
叱咤もなにもなく、ただ許していた。そういう優しさに甘んじる自分の惨めな姿を内村は感じて、橘の心臓を殴りたかった。持ち上げた手は拳を作ることさえできずに、幼子のように彼のジャージをたぐってしがみついただけだった。
無造作に降りたつ橘の掌は一切の不安から内村を遠ざけた。
そして聴覚を支配する。恐怖と焦りを囲う。
これが内村を呪う音。彼の弱さを許し包んだ人が最後に聞かせた命の音。


彼は去った。
ついに勝ち得ることのなかった内村の希求するものは、もう決して手の届かない場所へ遠ざかる。敗北が引退と同義にある場所で受けた抱擁が、内村に与えられた到達点だった。
多くを語らない橘の意図をたどることは存外に内村のプライドを喰い荒らす。だからあのときの記憶は今でも内村の聖地に動かしがたくあった。思い返すことさえ躊躇われる焼け付いた記憶。
もう聞こえないはずの鼓動は、亡霊のようにたち現れては内村の柔らかい部分に低く響く。

もう見られてなどいない。彼を自らの手で救うことは出来ない。自らが彼にすくい上げられることなどない。それらの可能性はすべて過去になった。
あり得るはずのない未来を希求してコートの上をかけずり回る日々だけが続いている。今も、きっとこれからも。あのころ、泥に似た疲労がまとわりつく体を動かしていた器官はもうここにない。では、自分はなぜ立っていられる。テニスをしていられる。
まともに受けてはいられない剛球を繰り出す石田と、広い視野と器用なサポートでゲームメイクをする桜井のペアを破った。この体と魂を動かす心臓はもう遠ざかって久しいはずなのに、自分は当たり前のように動き走りラケットを振り勝利を強さを求めている。
あの音から逃れるために。あの音に報いるために。
うるさいほどの至近で鳴る臓物の生々しい動きを感じるのに、周りは冷えた空気で閉ざされている。じわりとにじむ汗で体が端から冷えていくのに、鼓動だけが鳴りやまない。


「……内村っ!」
「なにあれ。勝っておいて挨拶なしに出ていくって何様のつもりだよ。内村のくせに生意気だよな」

とっさに伸びた森の指先が空を掻く。ちらとも背後を確認することなくそれを避けた内村は、うつむかせていた顔をつとあげるとコートを出ていってしまった。追いつくことを諦めさせるような足運びではないのに、軽く丸まった背中が不用意な干渉を躊躇わせる。

「あいつもいろいろ悩んでるんだろ」

程度の差はあれ、つきあいが長ければ自分でも見せたくなかった顔をさらしてしまうことがある。感情の振れ幅に柔軟な理解を示す桜井が首を回しながら、軽く聞こえるよう意識された声を使う。内村の姿が水飲み場がある方へ消えていくのを横目で確認する彼の隣で、少し惚けた顔の石田が同じ方向を見ている。やがてその表情は後悔にゆっくりと転じていって、桜井は背中を軽く叩いてやった。
様々な言葉をスキンシップ一つですませてしまう桜井の信頼に似た横着を、伊武がさめた目で観察している。石田の頬にあらわれる安堵。桜井にいくら背をふれられたところで、伊武にも、おそらく内村にも与えられることのない種類の得難いものを湛えた平穏さに添えないのは、居心地が悪い。

「少なくとも今はそういう時間じゃないだろ。ほら、礼。終われないから早くしてよ」

常より硬質な響きが日常に戻る間合いを失った三人を叩いた。
一人が欠けたまま握手をする光景は異様だ。普段なら挑戦的な言葉の飛び交う場面なのに、今はまったくとそれがない。
それでも、森の手をきつく握ったそれぞれは指の力で己の悔しさと闘志を伝えてくる。汗ばんだ手が離れてからも残るうっすらとした痛みを味わって、森は拳をつくった。

「ごめん、行ってくる」
「ああ、頼んだ。アキラには」
「今はちょっと。上手くしておいてくれない」
「そうだな。了解」

森のわがままを、桜井は二つ返事で許容した。不思議な信頼を感じて、森は無言で彼の顔を見返す。
「心配してねえよ。俺は」
目で続きを促された桜井は、唇を片方だけ持ち上げた。
「内村、強くなってるし」
桜井が操る論法は時々森の理解できる範疇から突き抜ける。理論ではなくそこにある感情のみを受け取って森は笑っておいた。桜井は相変わらず彼の理論でその笑顔を解釈し、快活に手を振って森を送り出す。



「内村!」
森は校舎に背中を預けているジャージの影を見つけると、しっかりと距離を詰めてから声をかける。両手を上着のポケットにつっこんで肩を丸める姿勢はいつものものだ。体躯が小さいことを揶揄されればかみつくくせに、そのあたりに頓着はしない。
「……なんだよ」
内村はちらと首を傾けて、すぐ横まで来た森を見やる。絶対に聞こえないふりなどできない間合いを作ってから接触してくるのは、意識的にそうしているのだろうか。思えば森に遠くから大声で呼びかけられるようなことはない。森はそんな内村の考えていることなど知りもしないくせに、すこし首を振っただけで沈黙を選んだ。慎重な呼びかけと相反する対話の形に、内村はいまでも一瞬の戸惑いを感じることがある。森はいつから黙ったまま自分の横にいられるようになったのだろう。

互いに落ち着かない呼吸を聞きながら、冷たい校舎にふれた部分から急速に熱が逃げていくのを感じる。部活動の喧噪がさざめく学内では、そこかしこに熱持つ体が蠢いているのだろう。その中にいて、自分だけが奥底にくすぶる炎さえ奪われてしまう気がした。
このままでは、ふつりと消えてしまう。切れてしまう。倦怠のなかにあったのは飢えだ。がむしゃらにやっていたあの頃、あらがいようもなくそそぎ込まれたあの鼓動。
離れては、死んでしまう。

「なに?」

内村は静かに息を整えている森の肩に額を押しつけた。
さらりとしたジャージから、うっすらと汗ばんだ肌の気配がじわじわと滲んでくる。
森は戸惑いながらも、橘とは違う腕でそっと内村の背に手を回して一瞬きつく力をこめる。そして罪悪を感じるほどの柔らかい声で、どうしたのと問いかけた。

「おまえ動悸激しい」
ぐいぐいと頭で押しやると、森の体は内村と壁の間で逃げ場をなくした。笑いの気配は消えない。

ああ、あの音がここから聞こえる。ずっとそばで鳴っていたのはお前の心臓だったのかな。強くなりたいって、俺の隣でがんばっている音だったのかな。

「内村、そっちだって、どきどきいってるのに」
「うるせ」
脈打つ心臓は穏やかにゆれている。離れるものかといっそう強く頭をこすりつけた。強くなりたい、それが誰のためだとか、そういうものをおいておいても、ここで脈打つ心臓はそう叫んでいるに違いない。

「なんか、意味わかんないよ。大丈夫?」
森の体が脱力し、あやすように内村の背を叩いた。森と内村は、少しでもテニスから離れたり、内面のことを語ろうとするとすぐに齟齬が生まれると気づいた。単語の選択から違っているようだった。それでも森と語ることが苦痛ではない内村は、やはり困難な手順を踏もうとも、それなりの時間をかけて説明をするだろう。

同じように鳴る心臓が二つ並ぶことについて、彼が感じ得た喜びのことを。






20111227

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