for a rest
肩ごしにふれたガラスは冷たく、細かな水滴がたくさん張り付いていた。 頓着することもなく扉に肩を預ける伊武の手元で、メールの受信を知らせるイルミネーションが控えめにまたたく。
つい先ほど反対側のホームから手を振ってきた集団が一斉に送ったらしい。ごくわずかな時間差で立て続けに飛び込んでくるメールの勢いがわずらわしくもあり、彼らの姿そのもののようで愛嬌もあった。
どのメールにもなぜ教えなかったという文言が織り込まれていて、明日は飲みにいこうだとか、彼らが勝手に盛り上がった空気が端々から感じられる。
いったいどこから情報を手に入れたのか、ずらずらと並んでいた顔ぶれを思ってみても上手くいかない。
第一、アドレスを交換していないものもいるらしい。
名前で表示されない数通は当たり障りがないか、あるいは不思議となれなれしい様子で並んでいる。
知っている相手かどうかは打ち合えば、あるいはラケットを見ればわかると思ったが、今それを求められるはずもなく、結局、いつも通りの無愛想な返信をした。相手の名がわからないなど、些細なことだった。
ついでのように受信フォルダにたまったデータを整理していく。 大学生活が始まってから、メールの受信は伊武の意とは無関係に急増した。一斉送信される事務連絡はうるさいものだったが、そのうちのいくらかは必要な情報であるので受信しないわけにはいかない。ただ祝いの言葉をくれた友人たちのメールがその山に埋もれていくことを考えるとわずかばかり後ろめたくなり、伊武はせっせと指を動かした。
大学に入ってからの分をまとめて片づけてしまうと、それより古い日付のものはぐっと減っていた。機種変更の際に取りこぼしたり、断片的なやりとりに執着を持てずに一括で消している。 わざわざ保護をかけたメールは重要だった事務連絡が多く、すでに用を終えたと判断したものはそれも消去した。
作業をしていると、受信の日付は年単位で飛んだ。
そこに残されているのは、中学生のころのメールだ。橘や、同級生、後輩、時には他校生から、節目節目に送られたメールの数々が律儀に保護されている。
そうせざるを得なかった当時の感傷が生々しく迫ってきて、同時に気恥ずかしくもあり、その層には手をつけられない。
やがて、指が止まった。行き場を失った親指がしかたなしに本文を表示させる。その一通はメールボックスの奥底に埋もれていた。日々降り積もっていく塵の下でじっと息を潜めていたようで、一年か、あるいはそれ以上の期間をおいて再び画面に呼び出された短い言葉は、つい今し方聞いたもののように、音声として再生される。
あの日、伊武からかけた電話は、神尾によって乱暴に切られた。
互いにささくれだった気持ちを持て余していた夜だった。
伊武も神尾も、打ち返したボールがコートを抉る度に、晴れがましい歓喜ではなく冷たい焦りにおそわれていた。肩で息をする相手に遠慮なく侮蔑の視線をたたきつけ、言葉も交わさずに次のセットへうつる。伊武がコーナーに飛んだボールを逃せば、同じ視線が突き刺さった。
二人はその意味をわざわざ言葉にせずともわかっていた。
なんでこんなに弱いんだ、と。自分の非力さを痛いほど感じながら、相手の未熟なところが疎ましくてしかたがない。二人とも、それを責めずにはいられなかった。
彼らに残された時間はいくらもない。それを意識すればするほど、神尾と伊武が立つコートから賑やかさは失われていった。自分のポイントになることがうれしくないわけではない。けれどこの程度の球に届かなければ、到底たどりつけるはずもない。拳をつきあげて誓った、全国という遠い場所へは。
冷たい汗がにじむ手のひらが痛いほどラケットを握り、重い球を追いかける。追いつければ相手を軽蔑した。追いつけなければ自分をさげすんだ。
俺がお前が勝たなきゃならない。俺たちが負けたらだめだ。そうでしょう、橘さん。
なのに俺はお前は、こんなに弱い。
隣のコートから、練習終了を告げる橘の声が届く。伊武は渾身の力が込められたショットに追いつきはしたものの、急に興味を失ったようにいなしてからボールを受け止めた。
顔を上げると噛みつきそうな目の色をした神尾の視線があった。歩み寄りながら獣めく色を濃くしていく。
「下手くそ」
「お前だろ」
コートから出た二人が投げつけあった言葉を耳にしてしまった石田は顔をこわばらせたが、それにかまうほどの余裕もない。体にうずまく熱が、運動量のためか、身を焼く焦燥のためか、二人ともがわからなくなっていた。
帰路、他の部員の前でもにじみ出ていた苛立ちは、ついに電話越しに破裂した。
互いを深く刺す応酬が続く。幼い焦りや怒り、そして恐怖がひたすら身体をふるわせて、湿った部屋の空気をはねのける力もない。耳に押しつけた携帯電話が熱をもって、手の中に汗をかいた。スピーカー部分から流れ込む声は頭をゆらし、鈍い痛みを連れてきた。
悲鳴は皮肉になった。吐き出したい恐れは侮蔑になった。
一度も口にしたことがなかった痛烈な批判を繰り返した。
荒い息づかいと乱れる口調の中に、戸惑いが見え隠れしていたくせに二人とも目をつぶっていた。
やがて神尾が負けたら腕を折れといい、伊武は代わりに脚を折れと返した。
負けたら、という言葉が奇妙な圧力とともに響いて、二人は口をつぐんだ。負けることは、道が絶たれることをそのまま意味している。
沈黙が落ち、なにかもぞもぞと動く気配に耳を澄ませ、ずずと鼻をすすったり、深々と呼吸をするうちに底の見えない焦りは過ぎ去った。
「……おまえの長電話疲れるんだよ」
「じゃあ切れば」
息をのむ間をおいた後に、なにか舌打ちのような音が聞こえ、あっけなく通話が切れた。機械音が流れるスピーカーから耳を離した伊武は、急に体の力を抜いて布団にひっくり返った。天井の蛍光灯が白々しく目を射る。
神尾と同じように、伊武も深い疲労を感じていた。
言い争うことがなかったわけではない。ただ、ここまで相手の心を抉った感覚があったのは初めてだ。
ひどく落ち着かず、天井をにらみ続けるのも飽いて寝返りを打つと携帯が震えた。
のろのろと手を伸ばして画面を見ると、神尾からメールが入っている。
まだなにか言い足りなかったのかと眉をひそめながら開封すると、そこにあるのは伊武の予想を裏切る文面だった。
たった四文字、おやすみ、と。
それだけの言葉を送らずにはいられなかった神尾の心持ちを考えるうちに、いつのまにか瞼は閉じていた。
彼も眠れずにいたのかと、そして眠れない自分に気づいていたのかと、そう思い至ったのは朝になってからだった。
なにひとつ用件を含んでいない、あいさつだけのメールがきしむ心を驚くほど穏やかにした。
次の日なんでもないような顔で隣に立つ神尾に不穏な空気をはらむ話題を持ちだすのは気が引けて、その事実を伝えることはなかった。
保護もなにも施さないまま、伊武が何年も消さないでいるメールを送ったことなど、神尾はとうに忘れているに違いない。
あんな電話の後で、追い打ちでも謝罪でもなく、ただ安らかな夜を願う言葉を送ってくるなど、彼にしてはできすぎだと今でも思う。
無神経なやつだとばかり思っていた。今でもその片鱗は消えず、ときどき非常な傲慢さをのぞかせる。その神尾が見せた気遣いらしきものに、あの夜の伊武はそっと背中を撫でられたような不思議な気分を味わったのだ。
画面に視線を注ぎながら昔の記憶に泳いでいた伊武の意識は、下車駅が近づいていることを知らせるアナウンスに引き戻された。
同時に、携帯が新しいメールを受信する。
その文面を一瞥した伊武の口元が、うっすらと緩む。
扉が開いたら階段を駆けあがろう。
改札で、彼が待っている。
20111103 Happy Birthday, Shinji.
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