encount
薄いレジ袋によって伊武の手からぶら下がっていた卵パック(10個入り、税込み228円)が、千石清純(15歳、山吹中三年)の側頭部を打ち抜いた。
「あれ、伊武くんじゃん。買い物? あ、その子たち妹さん? やっぱりかわいいねえ」
軽い調子で勝手にしゃべりたてる声のどこに、目を細めて小さな妹と視線を合わせるようにしゃがむ姿のどこに、伊武の思考を沸騰させる要素があったのか。
夕暮れが夜に変わる時間帯、通りの向こうから派手な頭が近づいてくる。やり過ごそうとした伊武を裏切って、彼がまっすぐに近づいてきたときから、許容は踏み越えられていたのか。
彼は軽い足取りで日常を踏みつぶしにやってきた。
過ぎ去った一時の衝動が引き起こした結果に立ちすくむ伊武は、そこで恐ろしいものを、見た。
「そんなに俺をぶん殴りたかったんだね。卵が割れる、とかを忘れるぐらい」
通行人の奇異の視線を集めながら、千石はごく明るい表情を保っていた。
輝いている制服に、つぶれた卵の中身でも飛び散っていたらもう少し違った顔をしていたかもしれない。
運命的に受精しそこなった卵たちはケースの中で薄い殻ごとつぶされ、レジ袋の内部を汚すにとどまっている。
「……手が、……すんません」
手が。手がすべりました、か。言うことを聞きませんでした? 違う。二本の腕、十本の指、備わる関節筋肉無数の骨巡る血液、すべてすべて思い通りに動いて当たり前、それができなければ伊武は自身の存在価値を見失う。
あの瞬間は確かに千石を打とうとした。
思い通りにいかないのはいつだって頭の中身だ。勝手に怒り悲しみ嫉妬し、緊張し焦りたまに絶望し、しまいに死にたくなる。
つぶれた卵を気にする妹の小さな頭にやさしく手をあてがって、伊武は千石が先ほどやったようにしゃがんだ。その姿を、千石が制服のポケットに両手を突っ込んで眺めている。伊武のつむじから流れ落ちた髪を、するりと耳にかけて視界をあける仕草。不安を露わにする妹たちにささやくように声をかけ、軽く抱いてやるときの柔らかい表情、など。
千石が知らない伊武の姿。
「俺を殴るために妹ちゃんの手を離すのも、その袋を置くのも嫌だったんだ。どうせ俺は女の子なんかにきゃあきゃあ言われるバッタみたいなやつだよ。手で払いのけるのだっていや、さわりたくない、とってとって、ってされちゃう虫けら。でも、妹に悪い虫がつきそうだったら、手で払えるぐらいじゃないといけない。君、男子ならね」
細い首。生白い肌。浮かび上がる骨の陰影、頭垂れる伊武の背中に千石の戯れ言が降り注ぐ。
「……まだいたの。別にあんたのことそう思ってるわけじゃないし」
「またまた。伊武くん嘘ついてる。あ、わかった。俺相手に緊張してるんでしょ」
「……なにを言ってるんだこの人」
「だって、君は、俺に、さわれないじゃないか」
「それとも、本気でおびえてるのかな」
異質なものへの対処として、その存在をないかのように振る舞うだけの高慢さを備えていない伊武は、ほとほと困惑した思いで千石をみた。
千石にはその戸惑いまでもがつぶさに伝わっているようなのに、伊武の手元にはなにもよこされない。卵パックで頭をぶん殴られて笑える人間などこれまで出会ったことがない。もちろん、卵パックで人を殴ったのは伊武にしても初めての経験だったから比べようがなかったけれど、それにしたって目の前の笑顔の異様さといったらない。
背筋を下る汗が冷たく、さらにその感覚が彼をおののかせ、片足が引き下がろうとする。幼い妹たちがつかむ手、すがりつく脚、そんなやわらかいものを蹴りたてることはできず、わずかに肩を引くのみにとどまった。
切れ長の目をおおきくして千石を見つめる伊武は、伸びてくる手にもよりいっそう表情をこわばらせることしかできない。
頬の曲線を伝った汗をぐいとぬぐい取られた。
その一滴が千石の中指の腹にのり、それがなにか汚らしい感じでひかっている。そう思った瞬間、千石の口元から赤い舌がでてきてそれをべろりとやった。
いかにも満足したように目を細めた千石の眼前で、伊武は血の気すら引いてしまったような白い顔をして凍りついている。
やがて黒く濡れた瞳のなかでどろりと炎がわきあがって、青白かった頬にうっすらと朱が差しはじめた。
それを眺めてさらに笑う、千石、清純。彼の好奇心は、悪意に近い。
20111029
back
|