riverside
ストリートテニス場から河原に行きたいと言い出す彼女に、否を唱えるものはなかった。
ただ年下の少女の思いつきに従うことを「振り回される」と感じる、自尊心ばかりがたかい少年たちはその場にとどまるなどして、彼らの背中を見送った。
彼女の周囲には相当にきらきらしい男たちがいて、その輝きは、たとえ彼女が中座したとしても、損なわれることがない。
薄汚い更衣室から身綺麗な服装になって戻ってくる彼女は、相変わらず光りかがやき、彼女を満足させるだけの熱っぽい視線に迎えられる。
杏の平穏はただ彼女を好ましく思う男たちの努力によって保たれている。
もちろん、中には努力などしないでも女をそのように扱える男がいる。
世界の中で、自分だけが彼に大切にされ、そして彼の乾きは、自分によってのみ満たされる、そう錯覚させられる男がいる。
彼の自尊心は強烈に輝いていて、ほんの少しの、神尾と桃城の諍い、彼にとってはそれこそやくたいもないあらそいごとや、あるいはその他愛ない諍いに飽きずに興じている神尾に、陰のように寄り添う伊武の悲しみを、見事に隠した。
男たちに囲まれて彼女はもう一度「河原に行きたい」といい、自分を見下ろす目がそれはそれは優しいことを当然のように享受してにっこりとした。
セロハンの細切れのようにきらめいている水面との間に、ごつごつとした岩と青い草の群が横たわる。
そこに足を踏み入れようとした杏の手首を跡部だけがつかみ、制止した。
大きく目を見開いた少女の瞳に、ゆっくりと不満の色が沸き上がるのを、彼は、正面から見据えてしばらく黙っていた。
「……なによ」
「足の形が悪くなるだろ」
杏は外国の言葉を聞いた顔をした。
自分の足下を飾るミュールの踵を跳ね上げて、ヒールの形のか細さをまじまじと見つめる。靴裏から生えているその形はさほど長くなく、短い弧を描いて鋭くとがっていた。
その間、跡部は彼女の腕をとってきちんと支えている。
「これくらい、なんでもないわ」
「だめだ。そうやって、とことこやってるから女はすぐに足が曲がる」
「そんなものかしら」
なおも、納得がいかない顔をしている少女の目が、一心に水面に向けられているのをみた跡部は、同じ方向に視線を投げた。
ところどころに吸い殻や空き缶が散乱し、わけの分からない針金が人工の岩の間から鋭く天に伸びている。跡部たちが立つすぐ近くまで、幾度か水流に飲み込まれたらしく、青く茂る草の間に白っぽい砂や藻が干からびていた。
唯一きらめいている水面は大した幅もなく、対岸はまた人工の川岸、そして灰色の雑然とした街並みが広がっている。
跡部の常識からすれば、それは足を止める価値ももたない貧相な風景だった。この地域一帯のおおよその景色は彼にとってひたすら猥雑にすぎる。
ただ、この少女がいなければ。
「もっと近くで水をみたいの」
落ちかかる太陽の色が水面で跳ね、色を抜いている少女の髪をさらに透明にしている。
つぶやいた杏の唇が少し寂しそうな形をつくった。跡部は首を振り、握ったままだったほそい手首を引いて、彼女を抱き寄せる。
跡部は杏を丁寧に抱え上げると、ゆっくりとした足取りで岩の上を進んでいった。
むき出しになっている杏の脚の上で太陽がつるりと滑って、その輪郭にふれることをおそれるようにただ淡く肌の上に光をおとしている。
跡部が歩を進めるたびに揺れるつま先でミュールのビーズ細工が宝石のように見えた。
「男と女ってああやって死ぬよな」
川縁に立つ男女の姿をまぶしく見つめ、伊武はそうつぶやく。しかし桃城も、神尾も、なにか伊武には理解できない感情にとらわれた瞳で彼らの姿を見つめていて、その言葉は誰にもふれられることが無いまま、せせらぎに流されてかき消えた。
二人の後ろ姿は誰もが目を背けたくなる輝きに満ちていた。
揺るがない自尊心、その先の強さに裏打ちされた存在感に負けない杏のきらめき。
彼らの世界でもっとも輝かしい男に抱かれても、間近となった美しい顔に見とれることもなく、その瞳のなかに河を横たえる少女の凛々しさは欠けることがない。
伊武の胸はその様子を見ても少しも痛まなかった。
彼のほしいものはそこにはないから。
ただ、ふと隣を眺めて、彼の親友がそれは寂しげな、そして畏怖さえ感じている表情をして、その唇がかみしめすぎて赤くなっているのをみてしまうと、彼の優しさはなにもしないではいられない。報われないとは、知りながら。
ごく小さな、小指の骨ぐらいの大きさもない小石を摘んで、何の前置きもなしに氷の帝王に投げつけた。
かよわい質量はかの人の背中でゆったりとふくらんでいるジャージに当たったところで、それこそ痛くもなんともない。ただ跡部はこの顔ぶれの中で最年長である自負のためか、それとも常の世話見の良さからか、だいたいどのようなことも気づきはして、必要と判じれば即座に動ける。伊武にしては意外なことに、ごくごくふつうの頼りがいのある先輩として振る舞うことを知っていた。
いつだって彼は絶対的な強者であることには代わりがない。強者ゆえにそれ以外のものを守り手慰みのように慈しむ。
「こらァ、神尾!」
「え、俺かよ?!」
あの美しい絵のなかから主役たちが駆けおりてくる。
目を丸くする神尾を見て、伊武はふと眉間から力を抜いた。それに気づいた桃城が、にやにやと悪気無く笑う。また嫌な顔をする羽目になった。
こちらに戻ってきた跡部にくってかかり、また何事かを明るい声で告げた杏にむかい笑う神尾と、杏が、並んで川辺に立つ姿は容易に想像できる。
そこに成り代われないのは伊武だけだ。
ずっと川辺から下がったところで、小石を投げ続ける。それしかできない。
神尾をあしらっていた跡部が急に腕を伸ばして、うつむいていた伊武の頭をぐしゃりと撫でた。言葉はなく、顔を上げても彼はよそを向いていた。
杏を包みこむ世界の余波にふれられて、伊武はその空気のあまりの平穏さに泣きたくなった。
たまらず下をむくともう一度頭をかきまぜられる。乱れた髪を律儀に整えてから離れる指はやさしい静けさに満ちていて、ごくついでのように、眦のはしの滴までをぬぐいさっていった。
そこでは涙のしみさえ許されない。
20111029
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