後遺症
「神尾は、なにもしなくていいよ。すこし抱かれていてくれれば」
彼らが互いを親友以上の関係と認めあって、間もない日。
久方ぶりに全日が休みの週末は、なにか二人で、と、神尾が、それなりの気遣いをして伊武に持ちかけた。神尾にはあまり縁のなかったことで、相手は毎日顔を合わせる伊武だから、改めて言い出すにはやや抵抗があった。
帰り道の別れ際、やっと神尾が言えた問いかけに、伊武は消え入りそうな声で答えた。静かな住宅街のはずれでなければ、神尾は無様に、もう一度聞き直さなければならないぐらいだった。
抱かれる。それは肌を合わせることを意味しているのかと、めまぐるしく思考する神尾の隣で、伊武は常より赤い頬をさらし、じっと返事を待っている。
彼らは肌どころか、唇すらあわせたことがない。
結局、週末は神尾が伊武を自宅へまねいた。
髪をゆらしながら礼儀正しく頭をさげる伊武は、常と変わらずに見える。神尾の母も慣れた様子で笑いかけ、冷たい緑茶が注がれたグラスと菓子をのせたトレイを神尾に持たせた。いくつか言葉を残し、家事に戻っていく。
伊武の目がその背中を少し追うのを遮って、神尾は彼の手を引く。ほんのりと湿った伊武の手のひらを感じ、首から下がるイヤホンをならしていないことを苦く思う。無言が気になるのは久しぶりだった。
半歩前をいく男がそのようなことを考えているとも知らず、おとなしく導かれ、伊武は神尾の部屋へ通された。
「神尾」
がらくたが散っている勉強机の上にトレイを置いた神尾の背後に、声がかかる。振り向けばベッドの上に腰掛け、背中を壁につけた伊武がいる。その、目が呼んでいる。普段の彼はベッドに浅く腰をひっかけるか、あるいは床に直接尻をつけることを選んだ。宿題や雑誌を広げ顔をつきあわせるために。
なのに彼は神尾の匂いがかすかに漂うマットレスに、完全に乗り上げている。
そこから彼を呼ぶ。ベッドの上へ、誘う。手招くわけではない。来て、とも言わない。ただ名前を呼んで、じっと見つめる。
言葉、そのような姿態をさらした伊武に、かける言葉、それを見つけられないのは、獣めく神尾の思考のせいか。
神尾は緑茶のグラスに唇をつける。つるりと喉を落ちていった水分は神尾の唇を舌を潤していったはずなのに、奇妙な乾きが残る。
今日はどうする、そんな言葉で、静けさの連続する空気をふるわせることを、神尾は躊躇し、同時に、伊武をわずかに疎んだ。彼はふいに奇妙な圧力を行使し、神尾をはばかりなく組み伏せようとする。
名前一つ、うなずき、指先、目線、しまいには、纏う空気。
伊武が当たり前に発したり、動かしたりする声に身体。誰もが持つもの、誰もがする動作、そこに千と万の違いがあろうとも、神尾と同じ年の、少なくともテニスの実力ではさして代わりがないはずの少年の、いったいなにが特別か。
けれどその圧力、神尾には理解できない力は確かに今この瞬間にも存在して、ためらいなく襲ってくる。
いまここで、それをするのか。
神尾はその力をあびると、身体の肉が、ひどくうずく。
身体は圧迫に反応し、屈しまいとする。喰らわれるならば喰らえという。
神尾。
二度目の呼びかけに音はない。
手足の、あまりに勝手に動き出すさまを、神尾は一瞬だけ考えた。伊武がライバルだから負けたくないのか、それとも、恋人をねじ伏せたいのかを思った。ただそこに分かりやすく、本能と意地という言葉が転がっているのを見つけ、神尾の思考は絶える。
伊武の足をまたぎ乗り上げて、イヤホンの片方を彼に差し出す。
制服ごしに、脂肪の下で酷使された筋肉や、荒々しく巡る血潮のもつ、恥じらいを知らない熱が混じる。
伸びてきた腕が腰にまわり、一度引き寄せられるともう意図は通じた。
軽く閉じられた太ももの上に尻をのせる。居場所を探った膝の下でシーツがぐしゃぐしゃによれた。むかいあう形に落ち着いてから、ようやく伊武の指先にイヤホンが渡る。
神尾は伊武の胸板に額をこすりつける。ボタンが引っかかってうるさい。許可なく二つはずし、素肌に頬をよせる。小さく戸惑った声がふってきたが、返事もせず、皮膚のしっとりとしていて、伊武を伊武たらしめる匂いが発されている肌を間近で味わう。
やがて伊武の手のひらがするすると神尾の背中を数回なで下ろした。
首を傾けてのぞき込んできた伊武の髪が触れて、神尾はくすぐってえ、と吐息を混ぜて笑う。
鈍く発光している肌に陰影をつくる鎖骨を初めてみるもののように指で探り、そこからのびる筋肉をたどる。伊武が身じろぎをする度にうすい皮膚の下で動く筋の束を、指の腹で、鼻先で追っていると、今度は伊武が身体をふるわせる。
シャツを好きに乱れさせ、それでも神尾の背中に回した腕を解かない伊武から、もうあの圧力は感じなかった。あれは、伊武が気を許さない人間に対して振るうものとは違う。たまに沸き上がる、怒りのそれとも異なる。
「なに」
「いや、別に……なんでもねえ」
神尾は首を振り答える。間近からその目をのぞいた伊武が数度瞬き、考えをはかる間をおいた後にため息をついた。
「それ、嘘だろ」
丁寧な仕草で髪を耳にかけ、あらわになった頬を神尾の頭にすり付ける。
ゆるくまわっていた伊武の腕に力がこもり、神尾はぐっと引き寄せられた。互いの顔が見えなくなる。
息を吸い、ゆっくりと吐く。伊武の、それだけの動作にかすかなふるえが混じっている。痛切な力が神尾の心までをしめあげる。身じろぎもできずにいると、抱擁はやがて緩んだ。
女物のシャンプーの香りに誘われ髪をさわっても伊武は腰に回した腕に少し力を込めるだけで許す。
幸福の手触りはこのようなものかもしれない。
しかしそこには、強い罪悪感がある。光に祝福されている幸いの裏には黒々とした淀みがある。
時は戻らず、神尾の言葉は未だ真実味を帯びない。
肩に額をこすりつけると、伊武の指がそっと髪をすいていく。地肌に触れない距離で何度も繰り返される動きのなかに安堵がにじんでいる。
それを後ろめたいと思うのが、神尾が幸せである限りまとわりつく暗い影、あらがいがたい圧力をもつ、そのかたち。
幸福と後悔はひとつの姿で、神尾を抱いている。
20111015
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