※大学生ぐらい※
nobody there
普段の行動圏からすこしはずれた先で、約束の時間までの時間をつぶそうと柳が立ち寄ったのは、見慣れた大型チェーン書店だった。
平積みも、特集フェアも、柳が通学時に立ち寄る店と似通っている。ほぼ毎日のように書店をさらっている柳にとって、特に見るべきものはない。おざなりに眺めていたフェアのなかから、装丁だけが替りながら長く読み続けられている一冊を選び出してレジに向かった。
それは自室の書棚にすでにささっている作品だったが、珈琲を飲みながら人を待つともにはそれなりに適している。
そして、人が死んでばかりの話を好んで読む友人にどうでもいい理由をつけて押しつけて、感想を聞いてみたかった。人が人を愛しながら去りゆく話が、彼にはどう見えるのか。今日の別れ際に渡して、次に会うときの楽しみにしようか。
傍目にはわからない程度にやわらかくなった柳の目線が、ふとレジに立つ店員の顔にとまった。記憶のそれよりは歳月による精悍さが増しているが、全体的に穏やかで控えめそうな、そのたたずまいに覚えがある。
街中を歩けば簡単に埋没できる容姿に格段の華はもちろんなく、柳の周囲をにぎやかにする友人たちに比べてしまえばその無個性は沈黙と等しくなる。
ただ柳の記憶は、誰もかれもが痛ましいかたちをしていた時代に交差した同世代の少年たちが、どれほど遠くなろうとも彼らを忘却しない。
あの夏の熱など、身体ですら覚えている。
カウンターに歩み寄ると、濃紺のエプロンの胸元に白くつるつるしたネームプレートを輝かせた森辰徳が邪気のない笑顔で見上げてくる。これが営業用の顔だとしたら、彼には人を喜ばせる才があるかもしれない。
おまえの手は物の怪のそれか、はたまた蝋でできているのか、と旧友に揶揄された手から直接文庫本を受け取った森が柳に気づく様子はない。
あの夏、弱者にとって立海大テニス部は絶望という姿をしていた、そう語った者がいた。彼らの主将を叩き潰したエースの奇妙にゆがんだ表情を指して、悪魔と吐き捨てる者もいた。
彼にとって、自分たちは何者だったのだろうか。そして、彼自身が属した不動峰のテニス部は、あの太陽のごとき独裁者に率いられた小さな集団は、どのような意味をもっていたのだろう。柳の好奇心がざわりと首をもたげる。
カバーは、手提げ袋は、ポイントカードは、と型どおりの質問を受けつつ、財布から紙幣を抜き出す。トレイにひらりとそれを預けて、書店のロゴがプリントされた紙で本を包む森の手先を眺めた。十本の指は関節が太く、爪の周りの皮膚がすこし荒れている。あの手の内側は、もう柔らかくなってしまったのだろうか。
柳も肩に背中に覚えがある、燃える血潮がめぐる手のひらを、彼もたしかに持っていたはずだった。
いま一度、あの頃の手のひらに触れられてみたいと、ふと思う。
「こちらフェアが行われておりまして、対象となっている本をお買い上げいただいた方にストラップをお配りしています」
彼の仕事は丁寧ではあるけれど、あまり早くはないらしい。
かといって居心地が悪くならないのは、彼なりの接客の間を心得ているからだろうか。
待つ間にそんなところまで思考をとばしていた柳の顔を、二つの眼が見上げて、また笑った。ぱしぱしと瞬くまつげの黒々と、うっそうとしているのが目に付く。
お一つお取りください、と大きな箱を差し出してくる森のエプロンの胸ポケットでは、そのフェアのものらしい猫がペンの先から揺れている。
随分、小憎らしい顔つきだ。
柳は促されるままに手を伸ばし、森が箱を片づける間に指先の動きだけで開封してしまう。
頼りない質量で、彼のそれと同じものが、柳の手にころがった。
自分の手のひらにいる猫、彼のエプロンにいる猫、そして森辰徳の顔、と順番に視線を動かすと、また、彼は笑っている。
「憎めない表情、してますよね」
あまり世慣れていない風で、かといってぎこちないわけではい。レジの向こう側から向けられるからといって、営業用と言い切るには、いささか、惜しい。そういう、感じのいいものが彼の顔に張りついている。
しかし本を受け取った時にわずかに重なった指先はかさりと乾いていて、柳の脳までなにかを伝達する間もなく離れていった。
「珍妙ですねえ」
「だろう」
「いえ、そんな話をする、あなたの感傷が」
そう言い放った旧友は樹脂製の猫をソーサーの横にころがすと、馴染み深い笑みをつくった。
「握手でもしてみましょうか」
柳はその手を冷ややかに見つめる。
品よく整えられた丸みのある爪先と、ペンのあたる部分がうっすらと膨らんでいる中指を見つめる。
やがて、静かに首を振り、森と触れあったおのれの指をそっと握りこんだ。
だれもかれもが、遠ざかる。
20111006
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