夜を越えて

上級生相手の試合に勝てばレギュラーで試合に出してくれるって。

皆はすさんだ表情を吹き飛ばして喜んだが、その知らせを運んだ桜井自身はその空気から一歩だけさがっていた。
その横顔を、伊武はさらに二歩は退いた位置から見る。
決意を秘めた目をして、桜井と、その周りにあつまった顔ぶれを眺めている。

皆と笑い、拳をぶつけながら、ほんの少しの陰りがある桜井の横顔にはひどい痣があった。
鬱血した青黒さと、破れた皮膚の赤さがまだらになっていて、いかにも痛々しく、やがて伊武は耐えきれなくなって一人喧噪に背を向ける。



桜井は部活後に自宅に戻ってから、夕飯前に軽いジョギングをすること日課としていた。
玄関から自室へ直行しラケットバッグをタンス横の定位置に据えるとさっさと制服を脱いでしまう。普段使いのジャージに袖を通し、小銭と時計だけポケットにつっこんで部屋を出た。
白シャツや汚れた練習着は浴室のカゴへ。

「行ってきます」

ただいま、から五分もたたないうちにその言葉を言う息子に、夕食の支度をする母親は気をつけてね、とだけ返す。

「わかってるって」
親の無関心を装った気遣いに感謝しながら、桜井は夕暮れから夜にうつろう空の下に飛び出していく。


部の仲間からも家族からも離れて、自分だけの呼吸と靴底がコンクリートを叩く音を聞きながら、桜井はいつも深い思考に沈む。

あと数時間で終わる今日のことを反復し、明日のことを考える。
絶えることのない生傷や理不尽な扱いと、テニスをする楽しさを秤にかけたくなる。
そして、同じ一年の仲間を思う。

皆、ふとした時に一人になると、決まって俯いている。暗い顔してるなよ、などと声はかけられなかった。
自分がそうでない自信はない。

そこまで思い至り、桜井は自分の眉間に触れてみた。
きっとひどく難しい顔をしながら走っていただろう。うっすらと汗ばんだ皮膚を揉みほぐしておく。

気を取り直し、太陽が沈むにつれて存在を主張し始めた街灯の並びを駆け抜ける。
もう少し走れば、折り返し地点と決めた小さな公園だ。
日が落ち、空気も冷えはじめている。火照った体にはこれぐらいが丁度いい。
ともすれば必要以上に落ち込みそうになる顔を引き上げて、姿勢を維持したまま角を曲がる。

そう、誰も気丈に振る舞い続けてなどいられなかった。
疲れは苛立ちと鬱屈を呼び、明らかな八つ当たりも多くなる。
仲裁する側に回ることが多い石田と森は、出会って一ヶ月ほどの仲間が見せる激情の発露に未だ慣れない。
小さな諍いがある度に、目に見えて憔悴している。
小学校ではあまり喧嘩もしないタイプだったのだろう。そして殴りあって鬱憤を多少でも晴らすことができる内村たちと違い、二人は逃げ道を持たないように見える。
きっと、口に出せない疲れはずっとたまっているはずだ。
言ってくれさえすれば、分け合えるものもあるのに。

そして、伊武。
実力的につりあう神尾以外には、ろくろく関心も示さない。
練習に最低限必要な会話しか求めていないという態度を崩さず、しかも言葉は辛辣で、時折弱ったこころを酷く斬りつける。

こういう時に改めて、自分たちはテニスと恐怖に結び付けられた関係だということを思い知る。
桜井たちは友情を結ぶより先に、互いのテニスを守るために身を寄せた。
叩きつける嵐に怯えるように、足元からにじり寄る恐怖が互いの手を握らせる。
たとえ隣にいる相手の顔が見えていなくても。
伊武のように、決して握り返してこなくても。
掴んだものを手放す恐怖が、諦めることを拒んでいる。


しかしこのまま理なく苛まれ続ければ、いずれ空中分解するかもしれない。

冷たい直感に突き動かされた桜井は、顧問にレギュラー入りをかけた上級生との試合をかけあいに行き、結果、望む約束は手に入れた。
それでも何か埋まらないのは、歪な形で結び付けられた絆が本物ではないから、か。

だから伊武は近づいてこないのだろうか。
なんとはなしに思考と結びつけた伊武の無関心な態度が存外ぴったり当てはまってしまい、桜井は唸った。
そうだとすれば伊武はわりと潔癖なところがある。
だからあれなのか、と半分納得したところで、桜井の意識はぐいと現実に引き戻された。


「……なにしてんの?」

間が抜けた声だ。

付近の子供たちが共同で遊ぶには狭すぎる公園は、日が落ちてしまうと人影も消える。
たまに学生カップルが薄い闇のなか、一つしかないベンチで寄り添っているぐらいだ。
その、あちこちのペンキが剥げながらも、金のないカップルに一時のデートスポットとして利用されるベンチに伊武が腰掛けていた。

散歩でもあるまいし、彼女とでも待ち合わせだろうか。
偶然ながら私生活をのぞき見したようで間が悪い。
いっそ気づかないふりで通り過ぎてしまおうかとさえ考えたが不用意に目を合わせてしまったところで命運はつきた。つきあいが浅いとは言え、目があった相手を無視していくことには抵抗がある。

結果、なんともしまりのない顔と声で対面してしまった。
いつも通りの涼しい顔をしている伊武からすれば、自分の顔はさぞかし面白いことになっているだろう。

「うん……ちょっと話したくて、待ってた」
欠けた目的語に入るのは明らかに自分だった。
なぜ。
両の手をポケットにつっこんだまま桜井を見上げる伊武の表情からはなにも読めない。

「ジョギング中でしょ。付き合うから、それから聞いてよ」
桜井は決して家が近いわけではないはずの伊武に、聞きたいことがたくさんあった。
話したいことも、もちろん。
聞きたいことは最初の問いかけにかなり集約されていたのだが、回答は随分省略された上に、桜井が本当に知りたいことを教えてはくれない。
混乱しているうちに、伊武はさらなる追い打ちとともに立ち上がって近づいてくる。
付き合うって。

「ついてくると俺の家に行っちゃうよ?」
なんで俺はこんなに間が抜けたことばかり言ってるのだろう。
行っちゃうよ? ってなんだよ。そりゃ行っちゃうよ。
ぽろりと口からこぼれてしまった言葉の無意味さに桜井はひどく落ち込んだが、伊武は意に介さない様子で「いいから」と小さく促した。


結局、この様子ではなんと言ってもついてきそうだと諦めた桜井は、伊武と肩を並べて夜道を走っている。

伊武は学校を出た時のまま、ラケットバッグを背負って制服という姿だった。学ランは脱いでいるものの、桜井が着ているジャージのように通気性の良くない服で走って、汗が気持ち悪くないのだろうか。気持ち悪いに決まっている。
いや、そもそもなぜ桜井がここを走っていると知っているのだろうか。やはり神尾か。
様々な疑問が浮かんでは、さらにそれらがばっさり切り捨てられる結末まで予想してしまう桜井は、普段自分の考えをまとめるために遣っている時間をすっかり浪費した。
無言とはいえ、併走者がいるだけでこうまで違うものか。
何か言ってみようかと迷い、無意味に口を開け閉めしてしまう桜井を気にとめる様子もなく、伊武はごくゆっくりと流れる町並みを横目で眺めながら黙々と足を動かしている。

街灯が頼りない光を投げかける住宅街のなかをひたすら走り、自宅の玄関が見えたころには、桜井はもうどうにでもなれという境地に達していた。結局なにも聞けなかった。そして何を聞けばいいのかもいまいちまとまっていない。
こうなったらこれから起こることを受け止めるしかない。
さらに、今までかなり分かりやすく距離をとっていた伊武が、曲がりなりにもアクションを起こしてきた機会を無碍にすることはないと、前向きにもなった。
こういう自分を、桜井はそこそこ気に入っている。


「今度の対二年戦、どうなるかな」
玄関の前で足が止まる。表札に一瞥を投げたきりの伊武が何も言い出さないので、とりあえず水を向けてみた。
その後、思い直して「ここで話してるのもあれだし、あがるか?」とも聞いてみる。
わずかに息を乱した伊武は、汗をかいたのか後ろ髪を少しかき上げ、迷うように視線を揺らす。ためらうような間に応じ、桜井も黙って返事を待った。桜井がそうだったように、伊武も言葉に迷っているのかもしれない。

ごく新しい友人に、なにかを改めて話そうとすると意外に難しい。その気持ちは良くわかる。
そして、聞いている側も意外と緊張するものだということを桜井は今、身を持って知った。

「俺、実力があればいずれレギュラーになれると思っててさ」
ようやく口を開いた伊武に、続きを目で促す。
「……自分がテニスできれば良かったから」
お前がそう思ってることはなんとなくわかってたよ。
友達を作るために部活に入ったような新入生は、すぐに姿を消した。伊武は最初から馴れ合いを拒むような言動をとり続けていて、それは今でも変わらない。せいぜい、伊武のテクニックに脚力で食らいつく神尾を打ち合いに誘うぐらいで、それすら常に一定の距離があった。

きついやり方だと思った。
あの環境で、すぐそばにいる仲間の手を取らずに一人で立ち続けようとする選択は過酷だ。頼るものが己とテニスの間にある絆らしきものだけとは、桜井からすればいかにも心許ない。
そもそも、もし伊武とテニスの間に絆やら運命やら、なにかしら善きものが天から授けられているのだとしたら、彼は不動峰中などにいないだろう。
彼が与えられたのはテニスに対する感覚の良さというべきものだけだ。彼は才覚だけを持っていて、その尊いかがやきを発揮する場所も、鞭撻を施す指導者にも恵まれない。守るものがない伊武のテニスはむき出しのまま、暴力の嵐が逆巻くコートに投げ出されている。
その危うさ故に、伊武から目を離せなかった。伊武がこちらを見ようとしなくても関係はない。ぎりぎりと引き絞られる彼とテニスを結ぶ糸が、日に増してぴんと張りつめる様を見ていた。

その伊武が、初めて正面から桜井を見つめている。
「その痣、俺をかばった時のでしょ」
「ん。そうだっけ」

腫れた頬に視線が注がれ、無意識に隠すように手が動いた。触れた皮膚のしたで、じわりと熱が存在を主張する。
確かに、これは伊武に振りおろされたラケットに飛び込んだ時のものだったような気もするが、あまりにも痣は多く、桜井の記憶は確かではない。

「そうだよ。忘れるなよ。桜井も石田も、森だって、多分みんな一回は俺の代わりに殴られてさ……おまえらなんでそういうことするんだよ。あいつらが殴りたいの俺なんだし、放っておけばすこしは自分の傷も減るのにさ。自分の身を守ることを考えろよ。ぼろぼろだろ」

桜井は妙な感慨深ささえ感じながらその言葉を聞いた。目の前をよぎるものすべてを素通りさせてしまいそうな伊武が、周りをうろつく自分たちの行動にいらだっている。それに安堵を覚えすらする。視線を向けられないことを甘受してはいたけれど、身勝手な不満を覚えないわけではなかったから。
視界には入っている。伊武はテニスしかしない人形ではない。

「こんなの、自分が殴られてるより嫌だろ。……ふざけるなよ」

わずかな月明かりと、空々しい街灯のなかに浮かぶ伊武の肌や、目玉の上にうすくある水分が発光しているようで美しい。
伊武の目がひたりと桜井を見据える。ただわずかに目玉が動いただけなのにひどく凶暴な印象がある。たえず温度を変えることのなかった伊武の澄んだ瞳に、凶暴なんて形容をつける日が来るなど思ってもみなかった。しかし実際に彼の視線は桜井を威圧する。

「ええと、伊武、さ」
口にのせた名が舌になじんでいなくて戸惑う。もう一ヶ月以上は同じ部に所属していたはずなのに、こうして二人きりで話すことさえなかった。

「なんか上手く伝わらないかもしんねーけど、俺はお前が殴られるの嫌だったから割り込んだ。それに関してはあまり後悔していない。そりゃ、痛いけどな」
伊武をかばって受けたこの痛みすら喜びだとか、そうでなくとも全く痛みなど感じない、なんて言い始めたらそれは間違いなく偽りか病気だ。桜井は伊武がそうでないように人形ではないのだから、骨まで響くようなラケットの打撃は非常にこたえる。

「でも、俺らがしちまったことで……伊武がつらくなったなら、ごめん」
伊武のきついまなざしが一度揺れ、珍妙なものを見る目になった。
ろくろく言葉も交わしていないのに、伊武をかばうようにして殴られる自分たちはさぞ不気味で、腹立たしい存在だっただろう。純粋な思いやりによって差し出された手ですら時に鬱陶しくなるのに、それが理解からほど遠い場所からのばされたものであればどれほど理不尽に見えたことか。
いらだちから疑問へと色を変えた伊武の瞳を見つめながら、桜井も言葉を探す。

「伊武は多分、今の一年じゃ一番強い。俺はお前みたいに上手くなりたい。だから、殴らせたくなくて……伊武ってさ、決まって手首や肘狙われるだろ。このままじゃお前が壊されるって思ったら、もう必死で」
桜井が持ち得ない輝きを、暴力が砕こうとする様を黙ってみていることはできなかった。ただその一心で桜井の体は簡単に動く。あらがうものすべてが地に伏せるまで止まない殴打の嵐に身を投げる。そうすることで、守れるものがあるならば痛みぐらいは我慢するつもりだった。


「でもこういうのって重いよな。実際、俺がかばわれても、疲れると思うし」
安易な共感を示されたとしてはねつけられやしないかと臆病になる心を、幾分軽い口調で隠す。

「俺もだけど、みんなお前のこと好きなんだよ」
尊敬では遠すぎて、憧れでは甘い。妬む気持ちが少しも含まれていないといったら嘘になる。
気圧される。
ねたましい。
焦がれる。
誇らしい。
守りたい。
並びたい。
桜井は迷った末に、好き、という言葉の寛容さに頼ることにした。


神尾と打ち合う伊武の姿に、その技量に、内村が惚けたように「なんだあれ」とこぼしていた。皆が自分たちの練習の手を止めて、二人の動きに集中したいつかの朝を、桜井は鮮明に覚えている。普段は持ち前のスピードで桜井たちの球を軽々拾ってしまう神尾が、面白いように振り回される光景を。
同じ一年生とは思えぬ技量を披露した伊武とは、ほとんど言葉を交わしたことがなかった。桜井だけでなく、ほかの一年の誰も彼と親しく話をしていない。
内村にもその傾向は強かったが、こちらは上級生と顧問への罵り言葉をともに並び立てるうちにそこそこ話すようになった。
共通の敵を持つと人は容易に団結できる。
伊武は愚痴や弱音の一つも漏らさず、とりつく島がなかった。
島、というのは不適当か。
伊武の底の見えない瞳を中心に、渦潮がある。桜井たちが手を伸ばしても、すべて指の間をすり抜けていくくせに、強力な流れが人をとらえて離さない。
けれど、中心に立つはずの伊武はなにものの手も受け付けないために、桜井たちはその周りを阿呆のように回る羽目になる。

なにかを発しようとし、結局なにも音を作れずに居心地悪く引き結ばれた伊武の唇がいじらしい。

とどけ、と思う。
好き、なんて曖昧にすぎる言葉に託したものすべてとはいわない。ただなにか一つでも、感情の奔流のなかから投げかけた一筋が、少しの歩み寄りをみせた伊武のこころに向かって飛んでいけばいい。


「好き、とか。大げさ。まあ俺も……今までこういうの考えたことなかったけどさ」
あまりに桜井が必死な顔をしていたからか、伊武がふと表情をゆるめた。それだけで、いつも通りの平坦な声も幾分か明るい調子に聞こえるから不思議だ。

「桜井たちと、一緒にテニスがしたくなったよ」

彼が笑っただけで、こんなにも世界が恥じらうものか。
これは卑怯というものだ。
さらさらと流れていた夜気、そそぐ月光、またたく星たちの温度が変わったようで、桜井は少したじろぎそうになった。どうにか踏みとどまり、それでも目を直視できずに、視線は月明かりと街灯にやわらかく照らされる頬のあたりをさまよったりする。

期待を、していいのか。
汗がなかなか引いていかず、火照ったままの体の理由はきっと外気がぬるいだとかそういうことではない。知らず、桜井は体の横で拳をつくった。

「だから……さっき二年戦のこと言ってたけど。負けるわけにはいかないよな。そもそも負ける心配なんて、俺はしてないけどさ」
俺は、の部分を強調した伊武が唇をゆがめた。挑発している瞳に、安っぽい街灯の光がちらちらと揺れる。
底冷えがするような凍てつく瞳に、恐怖よりも嫌悪に近い感情を抱いたときもあった。人を見る目ではないと。ああならばひょっとしたら自分は人間ではないのかもしれない、だなんて落ち込む口実にはうってつけの、あの目。
それが今は輝いていて、そこにはたしかに、桜井がずっと伊武と共有したかった炎がある。

「当たり前! 負けねえよ!」
桜井があちこちに小さな傷がある拳を掲げると、伊武のそれがかなりの勢いでぶつかってくる。
骨と骨のあたる鈍い音とともに、予想以上の衝撃にうめいたのは桜井の方だった。
「って……」
「痛くない痛くない」
もうにこりともせずに伊武は言う。手をさすった桜井は、長い立ち話の末に空腹を覚えていることに気がついた。程良く緊張していて意識すらしなかったが、月がもうずいぶん昇っていた。周囲の家々からはなじみのある夕飯時のにおいが立ち上り始めていて、きっとこれのなかに自分の家からのぼっているものもある。
そして、ふとした思いつきが頭をかすめた。

「伊武、あがって、夕飯食べてかないか? まだだったらだけど」
「……夕飯はまだだし、別に桜井の家にあがりたくないとかそういうわけじゃないけど、それが目当てで家までついてきたとか思われるのは嫌だから帰る」
「ばか、思わねえよ! あがれって!」

夜は、長く話をした。
きっとなにかが変わる明日が、久しぶりに楽しみだった。





20110918

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