※注意 高校生 神尾となにかあった伊武と、モブ女子が付き合ったりの話 ※
理系進学クラスの伊武君
__理進の伊武くんっているじゃん、テニ部の。
かしましく会話に興じる女子の集まりから、馴染みの名が飛び出してきて森は意識をすこしだけそちらに傾けた。その瞬間に友人の箸が弁当箱に突撃してきて、卵焼きを奪われる。
__ああ、最近××先輩と別れたよね。
……案外、広まってるんだな。
「って、こら、取るな」
「森家の味付けが俺好みなのが悪い。かわりに、ほら」
交換。
相手の箸先につままれたシュウマイを口にひきとって咀嚼すると、冷めているにも関わらず風味が良い。
「あ、これおいしい」
「だろ」
向かいの席の男は満足そうに目を細める。
__らしいねー。で、彼女いないときの伊武くんて、髪短い子なら誰でもデートしてくれるって。
女子の間で、友人の評価がとんでもないことになっている。
他人の口から語られる伊武の姿は、まったく見知らぬもののようだった。
いや、そうではない。
たしかに森の目から見ても、「誰でも」と言えるぐらいに、伊武の隣に並ぶ女子の顔はよく変わった。
ただそれが高校で伊武に出会った彼女たちにとって「伊武くんのふつう」で、森にしてみれば「おかしい」としか言いようのない姿だというだけで。
中学の時に勉強を口実にして集まり、夜通し騒いでも伊武の浮ついた話はほとんどなかった。
神尾と杏の話に終始していたからというのも大きいが、いかにも「興味ない」とばかりに無視を決め込んでいた伊武が、こんな噂をされるなんて。
内村が聞けば盛大に舌打ちするだろうし、桜井や石田は心配するだろう。
これが半年前だったら、なんだかんだ理由をつけて石田あたりの家に連れ込んで、詳しい話を聞かせろ、と徹夜することになるのは必至だ。
そういえば、最近はそういうことをしていないか。
なにも努力をしなくても当たり前に顔を見られて、少しの変化にも敏感でいられたあの関係はきっと二度と戻ってこない。
高校が別れた皆は、それぞれの生活に忙殺されているのだろう。自分たちと同じように。
少しずつ距離ができていくことを、ある種のあきらめとともに眺めていた。
それに、もうあのころのように、身を寄せあって戦わなければならないほど世界が狭いわけでもない。
「そういうものかな……」
「ん?」
「中学の子と遊んだりする?」
「俺、内部進学だからな。だいたい一緒にあがったし……外に行ったやつとはメールするぐらいか。あ、今度集まるって話あるけど」
「なんか、えらいね」
「そうか?」
マメ、というのだろうか。
すくなくとも「こういうものか」などと思って眺めている森よりはよほど情に厚い。人との縁を大切にできるのはえらいことだと、常々思う。
__だから××先輩ショートにしてたの? うわ、ありえな。
__いや、告ったときに、ショートカットの先輩が見たいって言われたんだって。
__切れば付き合うってかー。そういえば元カノ全員ショートじゃん。なにフェチ?
ひどい言われようだ。
やたら具が多い炊き込みご飯をつつきながら、森はため息をついた。
森と向かい合って弁当を広げている男などは、すべて聞こえていて、その上ですべて無視しているにちがいない。
__でもあの顔だったら迷わない? しかもけっこう優しいって。……髪切ろっかな。
__やめときなって。優しいっていっても、男テニすごい忙しいじゃん。土日も練習が当たり前、みたいな連中と付き合うの寂しいって。だから長続きしないんじゃないの。
わたし、立候補しちゃおうかな、とか、そういう話なのかこれは。森は中学時代よりもさらに磨きがかかった友人の美貌を思い描いて頭を抱えた。
乾いたまなざしで周囲を威圧する目も、えげつない毒を吐く唇も、鑑賞用としては一級品の部類だ。彼自身が大切にしている髪は言うまでもなくつやつやとしていて、これもまた女子の目を引く。
そして彼は、自分の姿形が相手にどのように見られているかを把握している。きつく無愛想な印象ばかりで近寄りがたい類の顔がうすくゆるむ時、どれほど人を惑わすか。
はっきり言って、絶大な威力を誇るのだ、あれは。
思わず、深いため息をついてしまう。
「森、元気無いなら」
「シュウマイはもういいよ……悪いし」
「じゃあリンゴ?」
「愛情のウサギは自分で食べなよ」
「本当に愛してるなら、リンゴより肉を入れてほしいよ」
そんなことを言いながら、真面目に愛情のすれ違いについて考えているような顔をするなんて。
伊武よりもよほど素直に表情を変える友人を、好ましく思う。
彼はきっと女に髪を切らせたりしない。告白されながら、どのような顔をして迫ればいとわしい髪が捨てられるか考えたりしない。
「森くんさー」
「なに?」
「伊武くんと仲良いでしょ。なんで先輩と別れちゃったかしらない?」
知ってどうする。
髪を切ろうかと言っていた女子本人ではなく、いかにも世話好きといった風に装う友人が声をかけてきた。女子のこういう不思議な連帯も森には理解しがたい。張本人は少し後ろで、うつむいて興味ありませんという顔か、あるいは恥ずかしいな、なんて様子を装っておかなければならないというお定まり。
「……教えてくれないからなあ」
「森くんて、本当に口かたいよね」
「ごめんね」
「や、美徳美徳」
小さくフォローを入れてきた声にはっとする。伊武が気になっている、と語っていたあの女子が小首を傾げて笑いかけてきた。
森は少し前まで彼女に抱いていた心情をすべて晒して謝りたいと思った。伊武を好きになったというだけで、クラスメイトの一人を軽蔑しかけていた。
彼女にしてみれば森がそれを表面に見せなければ実害はない。そして周囲からの評価も「良い人」で落ち着いている森がそのようなことを考えているなどと勘ぐる者は、最初から森を信用しない側の人間なので気にすることはない。つまり誰にも害は及ばないはずなのに、森は自分がそのような思いを抱いたというだけで自責の念を強く背負う。
森がそれを必要以上に抱えるのは、そうでもしなければあまりに奔放に執拗に、様々なものに対し選別を繰り返す己を飼い慣らせないから。
曰く、軽薄、不真面目、善良、有害、粗暴、純真。
定まる場所が見つからないために、その天秤はつねに均衡をとれない。
「森」
教室の入り口から森の席までを迷いなく進んできた伊武に、友人の方が早く気づいて森に低いささやきと目線で知らせてきた。
女子の間ではそこそこ話題になるだけあって、彼が姿を見せるとわずかな目配せが飛び交う。友人から森に送られたものもその一種だ。
伊武は遠慮がちなふりをしながらもあからさまに寄せられる視線に対して、いちいち眉をひそめてみせるようなかわいげを見せない。
自分が必要と思うもの以外のすべてを幕一枚隔てた世界においているところは、昔から変わっていない。
たとえばこの教室で、彼に幕の内側へ招き入れられているものは森のほか、ごくわずかのテニス部員だけ。そうやって選別されたものにのみ、素っ気なく視線を流すだけの挨拶が送られていた。
王者でもなんでもない、ただテニス部一年の実力者というだけなのに、その不遜さときたら中学のころとなにも変わっていない。彼が追従したのは橘だけだった。
「森」
小さな声に森が顔を上げると、机の横に立った伊武は小脇にかわいらしい紙袋を抱えていた。
「古語辞典貸してくんない」
「それならロッカーにあるから、勝手に取っていいよ。終わったら戻して」
で、それはだれから?
続きそうになる言葉をこらえるために、森は一度伊武のこぎれいな顔から目をそらさなければならなかった。昔の気安さから、時々無意味な深入りをしそうになる。
知ってどうする。
常に、自己からの声が森をつつく。知っても、お前の手元に分銅が増えるだけだろうが。
なにもかも自分の満足のためだけだろうが。
そんな人間が、ひとをはかろうなどとそもそもおこがましい。
人を嫌悪する理由を、その人自身へもとめるなどありえない。人の個性を、資質を、苦しみを、許容しない、できない、己の狭量さが忌々しい。
そう、そういって、生きにくいのは自分がすこしばかり人より狭量だからと帰結する、そんな自分が、一番嫌いだ。
なんてひとりよがり。
伊武が森の頭を解剖したらきっと呆れる。
近づいてきたテニス部員となにごとか話している横顔をぼんやり見やりながら、森の箸は止まったままになる。
あれほど世界と折り合いをつけにくそうだった伊武に、周囲は好感をもって接するようになった。
彼がわずかばかりに微笑むだけで。
自分は相変わらず、ことごとに振り回されていけない。
伊武が見上げる空があかるく晴れていることでさえ、森の意識にほの暗く陰を落とした。
いけない、とは思うのに、すこしもままならず、かみ殺した声は眠りを知らない。
「伊武くん、この子ショートにしようか迷ってるんだって」
森が言葉の継ぎ口を見失っていた隙に、先ほどから騒いでいた女子が声を投げてくる。机を三つ分は距離があっても、絶対にそれは届き、伊武を振り向かせるという確信に満ちた声。
なにしろ最近の伊武は、個人的に話しかけてくる女子には少し優しく対応することを学んでいる。だからこそ、小脇に収穫を抱えていても女子は気軽に声をかけられるのだろう。
「……似合うんじゃない」
そして彼も一割り増しの微笑に見えなくもない顔で受け答えする。
苛立ちが雷鳴のように森の内側をたたいた。
「伊武」
髪を揺らして振り返る友人に、穏やかな口調で続ける。
「辞書、テスト前には買った方がいいよ?」
この言葉には見え透いた毒があった。伊武が容易にそれと知れるだけの毒は、彼の耳に正確に届いたらしい。
「……じゃあ次は英和辞書借りにくるから」
ため息一つ分の時間だけひどく暗い顔をした伊武は、やがていかにも寂しそうに笑った。
あらがいようもなくしっかりと打ち込まれた楔を前に、森は諸手をあげてくだる。
女子に髪を切らせることも、授業に必要な教材をそろえないのも、彼にとってただの手段でしかない。
テニスでしか人とつながることを知らなかった少年はもういないけれど、伸ばされている腕は消えていなかった。
憤るべきか、安堵するべきか、迷いながら、結局いつものすこし困ったような笑顔を浮かべた森をみて、伊武はごく満足そうに目を細める。
森の降参が勝者に認められた瞬間だ。
彼が去った後、少女たちは「やっぱり切る」「もう好きにしなよ」といい、
友人は「普通英和は持ってるだろ」といい、
森は具だくさんの炊き込みご飯をおいしいおいしいと思いながら食べた。
20110918
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