タップ・タップ・タップ
「深司、ちょっとつきあってくんね?」
「なに」
昼休みの喧噪が漂う教室に乗り込んできた神尾を見上げて、伊武はうっすらと眉をしかめた。朝練の疲れを妙に引きずった体が重く、宿題に励む石田の隣でぼんやりしていたところだったので不機嫌さを隠しもしない。
しかも神尾は、板、としか言いようのないものを片手に持って来ていた。
厚みはさほど無いが、教室の机よりも二回りは大きいそれをひっさげて教室に入ってきた彼に、様々な方向から視線が飛んでいる。
「ダンス、動画撮ってくれ! 自分で見たくてよ」
注目をものともしない神尾は、元気に携帯を伊武の前につきだした。
「フォーム確認したいって言われたら引き受けるけど、なにそのダンスって」
「タップ! な、いいだろ? ……頼むから!」
黙り込む伊武に、彼が授業中もひどく眠そうにしていたことを知る石田が浅く笑った、ひそやかな気配がする。
神尾がこうやって少し眉根をよせて、じっと目を見つめる仕草に伊武は弱い。いつだったか、なんとなく妹の甘え方に似ていて嫌だとこぼしていた。
「……じゃあ、早く行こうよ」
結局、伊武は今回も気だるい疲れを引きずって立ち上がる羽目になる。がたがたと椅子を机に押し込む伊武に、石田が「もうあまり時間ないよ」と声をかけると、押し殺したため息がひとつ。
それでも、あとで、とは言わないのだから、最初から勝負はついている。
神尾に手を引かれ、ほとんど小走りになって教室を出ていく姿を見送って、石田は再び手元のノートに視線を落とした。
神尾が伊武を連れてきたのは、周りを校舎に囲まれた中庭の一角だった。
渡り廊下から続いて舗装されているために中履きのまま外に出られるが、この熱気の中わざわざ風通しの悪い中庭でたむろしている者はいない。
特別教室棟の側に移動すると、各クラスからのざわめきも遠ざかり、不思議と静寂に包まれる空間があった。
「ここでいっか。じゃ、これで頼む」
手にしていた板をぱたんと足下に置いた神尾から伊武の手へ携帯が渡される。
伊武が無言で動画撮影モードに切り替えている間に、神尾は昇降口から持ってきた革靴に履きかえていた。
朝練で、普段履きのスニーカーはどうしたと皆に言われながら、しきりに「今日はこっちのがいい」と言い張っていた理由は、これか。
タップダンス。
そんな特技を持っている、とは知っていたけれど、なぜ急に撮影などと言い出したのだろう。
首をひねる伊武は、手振りで指示されて神尾から少し離れた場所に立った。
パンツの裾をくるくると折って、引き締まった足首を出した姿が携帯の画面に収まっていることを確認する。
一連の作業を行いながら、未だに疑問符が抜けない伊武の顔を神尾がひたと睨んだ。
つま先を板につきたててぐりぐりと足首を回す。
だんだんと棘のある色を目に宿し始めた神尾にきづいても、伊武はただ集中しはじめたのかと思うだけだろう。
深司、おまえは時々そうやって、俺を手のかかるガキかなにかみたいに見る。
だから、だからだ。
「見てろよ」
神尾の足下で音が炸裂した。
木の板とコンクリートが互いに叩きつけられる音が校舎に反射して、不思議に甲高く硬質な音をつくる。
軽く足を入れ替えるだけ、という素振りからそんな音を作り出した神尾は、目を見張った伊武の顔に満足そうに唇をつり上げた。
「動画撮るついでで、見ていけよ」
もう一度、空気が弾ける。
まくりあげた制服からのぞくかたくしまった足が跳ねると、すぐに静寂が割れた。
静まっている校舎を一つの足音が跳ね回って何倍にもなり、伊武に降ってくる。
そしてまた、夏の茹だる空気がぶわりと戻る。
再び、靴底が強く板を蹴った。
その瞬間だけ伊武には煩わしい暑さも、体にたまっている疲れもはねのける奔流が、神尾の体からほとばしる。
建物がつくる濃い陰に立つ神尾は、ごく小さな板切れの上から出ない。
そこだけが自分の陣地というように、両足を浅く開いて、動かずにいる。
それなのに決して体の大きくない神尾が作り出す音の大きさ、その力強さときたら、いっそ尊大なほどだ。
前髪を少しも乱さずに、片目だけが伊武を凝視している。
息を詰め、神尾から目が離せなくなった伊武を見ている。
たかく響く音に、得体のしれない自信のかけらがある。
ほとんど動かさない上半身からも、静かに板の上に乗せられた足からも、それが起こる前までは少しもそれらしき気配はない。
衝撃は、いつだって突然に襲う。
「……ちゃんと撮れよな」
薄く笑う唇がふと引き結ばれ、ついで短く息を吐く。
伊武の返事を聞こうとも、見ようともせずに目を伏せた男は、右手で順番に左右のイヤホンをいじった。それから一度首を深く倒し、続いてぐいと上を見上げる。
晒された喉元の素肌に、うっすらと汗が光った。
ひとつづきの動作は、集中しはじめた神尾の癖なのだろうか。
コート上で見せるそれに近い緊張と集中のより合わさった糸が張りつめる。
その糸を振るわせないように、伊武は録画ボタンを押すだけの動きにも気をつかった。
「いくぜ」
ポケットに片手をつっこんで音楽プレーヤーを操作した神尾は、ごく無造作に指を鳴らしてカウントを四つ取る。
そして五つ目にあたる空白を、例の破裂音が飾った。
浅く響く音を押しつぶす、最初に聞かされた爆弾、間髪いれずに再び小さな音の波が押し寄せる。
一度細かく空気を刻み始めた黒靴の足は、一段と高く響くあの音の時はその働きを誇るようにぴたりと止まる。
再びの躍動。
静寂と喧噪がめまぐるしく入れ替わり、やがて一つの流れがあらわれた。
陰の中でさらに黒々とした学制服から生えた細い二本の足が、連続で板を蹴りつける。
時折手で拍子を入れながらも、神尾の片目はぬるぬる光り伊武を離さない。
ひときわ白さを主張するシャツから伸びた腕が足下の鼓動にあおられるようにふわりと浮き上がり、別の意志をもつ生き物めいて動いた。体の正面に、右手がするりと伸びる。伊武が構えている携帯のレンズに向かって、その奥にある伊武の瞳に向かって、神尾の荒れた手が持ち上げられていく。
足が刻む音はいっそう早くなり、しかし腕は指の先まで静寂を保つ。
ぴりぴりと張りつめた糸。神尾の指先から、伊武の心臓までを貫く一本の糸。
足を止めないまま神尾は笑う。
時折首を揺らし、わざわざ前髪がかかって見えにくい方の目で伊武を刺す。
得意げな色をいっそうに強くする瞳の引力に、しかし伊武はあらがえない。ただ捕らわれ、見つめる。
ごうと風が校舎の間を渦巻いて吹き抜け、神尾のシャツや髪を好き勝手に遊ぶ。伊武の髪もさんざんに吹き付けられたが、そこに手をやることはなかった。
笑いもせず、面倒そうな顔にもならず、ただ真剣に神尾の作り出す領域に魅入る。
強風にあおられて、白シャツの下から派手な晴れすぎた空と同じ色の青がのぞく。
凶暴な風も面白いらしく、神尾の口元にさらに笑みがひらめいた。
打ちおろされる踵、擦るぐらいの細かさで拍を刻む足先が歓喜に満ちた様子で次々と複雑なステップを繰り出す。
伊武には瞬きすら惜しく思われた。
やがて、差し出していた腕が楽隊の指揮者のように肘から先を大きく回し、何かをくっとつかみ取る。
あの、細く伸びて伊武の胸にまでつながっていた糸をつかみ引きちぎるように動いた。
同時に、一際大きく踵が打ち揃う。
それが、時間にしてみればごく短い、神尾が見せたダンスの幕引きだった。
神尾の足下からゆるやかに音が逃れていく。
反響した最後の一打が完全に響きを失うまで、神尾の周囲にはあふれだした音がまき散らされているようだった。
しん、と沈黙が落ち、ようやく外の世界の音が戻る。
かかげた拳からゆっくりとなにものかを解放するように神尾が指を開き、ついでだらりと力を抜いて右腕を下げる。
目を伏せてイヤホンをはずし、コードを手早くまとめてポケットにつっこんでから顔を上げ、集中を解いた男はにっこりとしてみせた。
「な、どうだった?」
伊武はその声には答えず、手の中で携帯のボタンを操作して録画を止める。
「……はい。撮れてると思うよ」
笑顔がゆっくりと沈んだ。神尾が板から降りて、伊武との距離を詰めはじめる。
一歩、一歩と安っぽい煉瓦模様を踏む足下から、あの音はもう消えていた。普段の機敏さが息を潜め、たっぷりと間をとった歩みは意識的な威嚇行為だ。
「なんだよ、少しは感想とかねーのかよ」
突き出した手の中に戻ってくる携帯を一瞥もせずポケットに押し込み、ついでにうっかりすると拳を作りたくなる手も後を追う。
跳ねそうになった語尾を苦労して押さえた。失望だって表に出ないように気を使う。
「こんな暑いのに、よくやるよね。しかもあの板どこから持ってきたの」
けれど、伊武はそんなことまったく知らないのだろう。
言葉通りに暑さがいとわしいのか、かきあげられた髪からのぞいた耳がわずかに色づいている。
暑いって。
そりゃいつだって暑いぜ。夏だろ?
「あれは木工室にあったのもらった。……じゃなくてよ!」
「まだなにかあるの?」
「……ねーけど!」
「じゃあね。俺、次体育だから」
言葉を叩きつけてから、違う、と神尾は唇をかむ。
ここでは、笑顔で別れられるはずだったのに、どうしてこうなる。
去っていく背中。礼すら言えなかった。不機嫌な顔をさらして、立ちつくす。
ほんの数分前まではあんなに張り切って踊っていたのがこのざまだ。ほんの数瞬前までは恥ずかしくなるほど笑顔だったのが、このざまだ。
いつも、いつも、いつも。
そして伊武はこうやって呼び出されて、勝手に使われて、勝手に不機嫌になった神尾をきっと責めない。
どころか、話題にすらしないだろうという予感がある。
口にすれば神尾の機嫌が損なわれると知っているから。
機嫌をとる、というほどではない。ただ。面倒なことにはならないように気にかける。
まるで子どものように扱われていて、それが嫌で嫌でしかたなく、朝は革靴を選んだのに。
すごいだろ? ほめてくれよ?
なんだよ、結局こどものわがままじゃねえか。
舌打ちひとつを落として、神尾もその場に背を向けた。片手にさげた板が、さっきよりずいぶん重く感じることはできるだけ意識しないようにして。
そして、普段通り厳しい練習を終えた神尾はくたくたになって帰宅した。
何気なく今日の動画を手元で再生する。音楽をスピーカーから出していなかったから本当はあまり意味がないのだけれど。それに、動画撮影は手段でしかなかったのだから、実はどうでもいいのだけれど。
伊武の目に映っていた自分の姿なら、わざわざ見てみる価値もあるかもしれないと思ったのだ。
予想以上に真剣な顔をして踊っている姿に、ゆるい笑みがこぼれる。
ああこんな顔してたのか、俺。でもリズム感は悪くねえ。
そうしてベッドの上に転がって脱力し、完全に油断していた神尾の耳が聞こえるはずのない声を聞いた。
「っんな……?!」
驚愕。
あわててボタンをいじり、少し巻き戻す。
自分の右手がゆっくりとおろされ、得意げな顔が「な、どうだった?」と言ったその直後。
「かっこいいじゃん」
ぷつり、とそこで動画が止まる。巻き戻しなどの表示が踊る向こうで、自分が間抜けに笑いながら静止していた。
かっこいいじゃん。
無意識のうちに、脳内でもう一度伊武の声が再生される。
「……なんか俺、やばくね?」
神尾が妙に火照ってきた頬にふれると、口元が中途半端に笑っている。
冷静になれ、と言い聞かせながらとりあえず枕を一度壁に投げつけ、ばすんと音を立てて落下したそれを拾いに行く。
「これはやばいだろ俺」
枕を元の位置に戻し、丁寧にカバーのしわをなでつけた後に垂直に拳を打ちおろす。
あっというまにぐしゃぐしゃになった枕を情けない目で見下ろし、次の瞬間にはぐたりとベッドに体を投げ出していた。
「おかしい。ぜってーおかしい」
枕に顔を押しつけながら、ひとしきりマットレスを殴った神尾はむくりと起きあがる。
おもむろにベッドの上に座り、放り出していた携帯に向きなおる。足はなぜか自然と正座の形になった。
「……もうこの動画見れねえ……」
確信に満ちたつぶやきとともにがっくりと肩を落とした神尾の前で、携帯が着信を知らせて震える。
神尾は久しぶりに、伊武からの電話に出たくないと心底思った。
20110916
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