キディ
「俺、いますごい後悔してる」
「まだ言ってる……この時期の判定なんてそんなに気にすることないよ」
いきなりシャープペンを放り出して机に突っ伏してしまった神尾の頭上に、伊武の淡々とした声が落ちる。
伊武のペンがノートに数式を書き付ける音は止まらず、その程度であしらわれているという事実がいっそう神尾の落ち込み具合に拍車をかける。
落ち込み、それはもしかしたら焦燥と怒りに変わる。
伊武の冷え冷えとした目にさらされると、神尾の内側ではいつも予測できない化学反応が起きてしまう。
「そうじゃなくてよ」
たしかに先日戻ってきた模試の結果は神尾に悲鳴を上げさせ、石田に本気で心配されるほど沈み込んだのは事実だ。だからこそ伊武に頼み込んで、放課後は毎日教室で居残っている。
けれど、そうじゃない。
「じゃあ、なに」
こつり、とペンの頭が神尾の額にあたる。
ごく軽く、ペンの動きで顔を上げるように促されて、神尾はしぶしぶ姿勢を戻した。
勉強を遮られた伊武は迷惑そうだったが、話を聞く気にはなってくれているようだった。ペンはノートに転がして、頬杖をついている。
その態度。不遜。傲慢。
なあ、今までそっち側だったの、俺だろ。
つらそうな顔をして、俺のために一心に身を削っていたの、お前だろ。
何で俺がこっちになったんだよ。
じわりと神尾のこころの色が変わる。
「もっと早くこうなってれば良かったのにって思った」
その言葉の意味を考えているように、伊武のまつげがゆっくりと上下した。
この不自然な間をもって、この会話がそれなりの意味をもって行われているという認識が二人に共有される。
「じゃあ、これからその分も俺と一緒にいれば?」
やがて、いつもの無表情ながら、確かに甘い響きを含んだ言葉が返される。
伊武がそれなりに神尾の顔色を読み、選び出した甘み。
それでも、「一緒にいよう」ではない。
そんなことが、ひどく気に障る。
伊武は気づいているのだろうと思う。
神尾がなにを後悔しているのを知っている。
そして、知った上で、もうあのときのようには愛してくれない。
ああいらいらする。
深司、お前が俺をずっとずっと好きでいてくれたあの時間が惜しいんだ。
だってあのとき俺がそれを受け入れていたら、俺が無造作に過ごしてしまった時間はきっともっと違っていたはずで、それはもう二度と戻ってこないから惜しいんだ。
お前が俺に気づかれないように殺してしまっていた感情を、押さえきれずにこぼれたのも全部、もう一度俺にくれよ。
俺は今度こそ、それを全部くってやる。
だから、くれよ。
いつの間にか神尾との関係における主導権が自分の手に渡っていると気づいた伊武は、もうあの頃のような、己のこころまでをちぎるようにして分け与える愛し方をしなくなった。
伊武がくれて、神尾が受け取らなかったたくさんの情はもうどこにも転がっていない。
ただ伊武のこころがちぎれたままでいて、そこからたまに滲んでいる血を見る度に、神尾はそれだけ伊武が自分を求めていたことを確認して安堵する。
同時に、そのなくなってしまったものがどうしようもなく恋しい。
わかっている。自分の強欲なことは、わかっている。
それでも欲しいのだから、きっとこの関係の上下がひっくり返ることはないのだろうと漠然と感じた。
それも悔しい。
なんで、なんでだ。
深司はあれほど俺を求めていたのに。
杏ちゃんに片思いしている俺を見てぼろぼろになっても、俺がしあわせになるように尽くしていたのに。
なんで、今はそうじゃないんだよ。
ひざまずいて愛を乞うのは、お前だったはずだろ。
ちくしょう。
「だって」
深司はもうあのときみたいに俺を好きじゃないんだろ。
今だって、なんで一緒にいようって言わないんだよ。
って、言えるか、こんなこと。
「いつまで一緒にいられっかなんて、わかんねーし」
ごまかすつもりで言ってしまってから、これも、自分ばかり伊武と離れたくないように強請っているように聞こえて不快に感じた。
だからなんで俺がこっちなんだよ。
「なんでそんなに感傷的なんだよ。鬱陶しいな、勘弁してよ」
これ、この、言い様ときたら。
お前ならわかってるんだろ。
ずっと、ストーカーかってぐらいに俺のことなんでもわかってて、下手な占いも裸足で逃げ出すぐらい俺の心情をすらすら暴きやがったお前なら。
神尾ののどに言いしれない怒りと焦燥がぐぐとつまり、すべての不満をまき散らすことができない。
前のお前なら、躊躇なく俺の肩にやさしく腕を回して、大丈夫だって言ってくれたのにな。
なんだったんだよあれ。サービスか。
おまえ、俺が杏ちゃんを好きだって言ってた頃の方がずっと優しかった。
ああ、あれが、もう一度ほしい。
あれがよかった。
転がっていたシャープペンをつまみ、もはや読む気もなくなった参考書に押し当てる。
ぴしりと芯がはじけるように折れる音がした。
神尾はいらだつと無意味にこれをする癖があるということを伊武が見抜き、やがてそれを神尾も知るところとなってからは、なにかの合図のように使われる。
神尾にとっては「むかつく」ぐらいなのだが、伊武にはその「ぴしり」は「甘えさせろ」と翻訳されている。
「神尾」
「あ?」
伊武が神尾の胸の高さに、掌を差し出す。
ラケットを握り続けて、すこしかたくなった皮に覆われた、それでもしろくきれいな手。
手のひらから五本の指までがそれぞれ異様に柔らかい曲線を描いて神尾を誘う。
このきれいな形は伊武がよくするもので、たとえば彼の妹の涙だってこの形にした手の、人差し指の背中をつかってやさしくやさしく拭ってやっている。
そしてその後、ふわふわとした頬をそっと包み込んでやると、幼い妹は伊武の太股にぺたりと尻をつけてまたがって、その胸に思い切りしがみつく。
そのそっと背中をさすってやる手つきがあまりに優しくて、神尾には与えられたことのないもののように思えて、嫉妬すらした。
その手が、今は神尾に差し出されている。
首を傾げながら、神尾はその白い手に自分の片手を上から乗せた。
お手、とされているようで気に食わない部分が無いではなかったが、とりあえず出されたものに触れずにはいられない。
途端、指がするすると絡んできて、きゅっと握りしめられる。
「神尾がこうやって俺の手に反応する限りは、一緒にいられるんじゃない。なにが不安なのか知らないけどさ」
「じゃあお前はいつまでも手を出してくれんのかよ」
「神尾さあ」
伊武の指は爪の丸みを確かめるようになんども神尾の指先をたどっている。
おもしろくも何ともないだろうという神尾の目線は完全に無視して、それを繰り返した。
「そう言うなら、そっちからも手、出してみれば」
神尾の手をゆるくなでていた指が離れていく。
伊武は引いた手を口元に押し当てながら、神尾をじろりと見た。
二つの黒い目は薄い水分をたたえて光っている。
生意気な。
神尾の機嫌が急激に傾いた。
見ていろ。
なら、この手に、お前のその冗談みたいにきれいな手を差し出してみろ。
短く整っている爪から、その皮膚の下を流れる血液、細い骨、全部、俺の手の上に自分から差し出してこい。
神尾は強く念じながら、ごく自然に見えるようにするりと手のひらを上に向けて伊武の前につきだした。
さあ。
「来いよ」
斯くして、伊武の手は神尾に捕らわれた。
「神尾、なに」
異様にきつく握られた手に眉をひそめた伊武が、その下の黒く濡れた瞳に一抹の不安を覗かせた。
冷たい水晶がかげる。
やがて神尾が一心に伊武の手を見つめ、ああこのまま融けあわないかな、などと言い出しかねない勢いで指を絡めているのをみた伊武は、いよいよはっきりと困り顔になった。
「なに、必死になってるの」
そう言いつつ、血流を止められて紫色に近づいている指先をみても抵抗しない。
ただ、神尾と視線を合わせようとしてか首を傾けただけで、いくら神尾の握力で骨がきしもうとも手を引かない。痛いだろうに。
柔らかな皮膚の下で骨と筋肉がごろりと転がって気持ちが悪いだろうに。
これは意地か。
白い手をぎりぎりと締めあげながらそう思考を巡らせた瞬間、悪魔的な考えがひらめいた。
ああそうか。
こういえば、よかったのか。
「なあ……もっと、やさしくしてくれよ、深司」
言葉の弱さと、そのうちにくすぶる思惑の落差がひどく、笑わないように気をつけなければならなかった。
伊武のまつげが不規則にふるえ、目線がうろうろと勉強道具が沈黙する机の上をさまよってからもう一度神尾のもとに戻ってくる。
その間、神尾は激しい羞恥に奥歯をかみしめて耐えた。
この惨めな願いがお前に届きますように。
やさしいお前のこころに刺さりますように。
おまえのプライドが、俺を見捨てることをゆるしませんように。
ああこれが愛の駆け引きってやつか。ひどいよな。ひとの弱みにつけ込むなんて。
20110831
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