瞼の裏
世界に見たくないものが増えてきた。
これはなんの裏切りだ。
もとより世界は煩わしいものであふれていて、ああもう面倒だからちょっと消えよう、ぐらいの軽さで踏ん切りがついてしまいそうなほどだった。
それでも伊武は様々に汚れたもの姿を見ることをやめなかった。そうしなければならないし、面倒だなどという理由で幕を引くのは正しくはないと教えられたので。もっとも幕引きにふさわしい理由はいくらでもあり、また同時にまったくないことを知ってはいた。
人はいくらでも勢いでその一線を踏み越えていくし、そのくせ他人に文句を言うのだけは得意なものが多かった。
ただ自分にそのように言い聞かせた人の服から、人工的ですこし安っぽい科学の花のにおいがしていたから、少しは聞いてやろうと思っていた。
そのにおいには覚えがあって、何かというと彼が大切にしているごく少ないもののふたつ、幼い妹たちが身につけているものと同じだった。
伊武は大切にしたいと思うものを見つけること自体が少なく、また見つけようと努力をしたところで報われるとも思っていなかった。
多分努力をしても大切なものの数が増えるのではなく、自分の中の侵しがたいはずのなにかがいびつな形になって、あれもこれも大切だなどと亡者のように手を伸ばすだけになるのだろうとぼんやりと考えていた。
だからその手の中にひかるきらめきは、伊武がそのようなことを考え始めてからこちら、なかなか増えることはない。
伊武の周りはたいてい静まりかえっていて、様々なものごとがそばを通り抜けていきはするけれど、なにも引っかからないからずっとそのままだった。
ところが中学に上がってテニスをしていると、何となく手放してはいけないのではないか、これは捕まえておくべきではないか、なんて思うものや、あるいはかなりの努力をして伊武のそばに寄り添おうとするものが現れた。
伊武はしばらく手の中にとどめておくものの数を増やそうか考えていたが、自分の手が昔に比べて少し大きくなったことを確認して、慎重にそれらに手を伸ばしてかき抱いた。
それらは暖かいばかりではなく、手のつけようがないほどの鋭さで伊武の手をひっかいたり、伊武の預かり知らぬ理由で勝手にぐずぐずと腐りそうになった。
伊武はそのような有様をみても、一度抱いてしまったものには情が深い性質だったので我慢しようと思った。妹たちも、時には癇癪を起こすし、最近などは子守歌でころりと寝てくれず、彼女たちの一番身近な男である伊武にさまざまな難題をぶつけてくる。
まあそれもかわいいと思っているあたり自分が妹たちにどれだけ弱いか知れるというものだったが、それだって最初はちがっていた。
いきなり胸に飛び込んでくるのも、足下にまとわりつかれるのもひたすら迷惑だった。今はかわいいばかりなのだが。
だからいずれこれらの新入りたちも、その厄介な牙とともに慈しめる日が来る。
我慢することには慣れていると思いこんでいたので、伊武は抱きしめたものを何一つこぼさずに大切に大切にしながらその日を待った。
それから伊武の周囲はめまぐるしく色を変え、紆余曲折の末にようやくあるべき姿を見つけたとでもいうように落ち着いた。
新しく身の回りにとどめておこうと思ったもののほかに、テニスさえも時に伊武の内側をえぐる爪になったのにはかなりの衝撃を受けなければならなかったが、それもどうにか飼い慣らした。
それからは快適で、いくぶん光の量が増したような世界を少しまぶしく感じたりしながらも楽しく過ごしていた。
それが、最近になってまた雲行きがあやしい。
あやしいどころか、明らかになにかがきしんでいるので、伊武はその原因を探さなければならなかった。同時にいつも以上に手の中にあるものには心を傾けた。
訳の分からないきしみによって害があるといけなかったので。
ただ不思議なことに、伊武がそうすればそうするほどきしみは大きく音を立てて存在を主張する。
まったくわけがわからなかった。
注意深く小さな世界を見渡し続けて、きしみの生まれるところをようやく見つけた頃には伊武は疲れきっていた。
見つけたとたんに疲労感はまして、手足がずるずるとした砂袋になったような重さで伊武を苛む。
きしんでいるのは他でもない伊武のこころで、しかもそれは一番の親友である神尾に接していることによって生まれるのだ。
足下をすくわれたような心持ちだった。
神尾が自分より杏を優先して休日の予定を調整することも、時には伊武の協力によって二人が共に笑いあうことも、伊武にとっては幸せであるはずなのに。
親友の恋を応援し、時にひどく落ち込んだり、逆に舞い上がっている横にいるのも楽しかった。どうしよう、といってすがってくる身体に腕を回して、しかたがないなあなどと兄貴ぶってやる。
そうすると神尾はなんとも情けない声で伊武の名を呼んで、どうしてこれぐらいのことでそんなに、と思ってしまうほど感極まった調子でありがとうと繰り返す。
心が満たされる気がした。
それが本当に気のせいだったなどと、冗談ではない。
けれど実際に、こころはきしんだ。
その名を苛立ちといい、おそらく嫉妬ともいう。
見たくない、そう思って目を閉じると今度は別のものが伊武のこころをぐさりとやった。
おまえはともだちが幸せな姿を見るのが嫌なのか。
ひとの幸せをねたむのか。
なんて。面倒だなあ。
目を開けていても、閉じても、どうにも居心地がよくない。この世界はやっぱり面倒で、やっと落ち着いたと思ったきらきらしいものたちは伊武の乱れに応じて揺れた。
ああでも、目を開けていては、この腹立たしい黒々とした感情がよどむ瞳を神尾にのぞかれてしまうかもしれない。
彼は常日頃はひどく鈍い男だったが、どうしてだか悲しみの匂いだけはごくたまに動物的に鋭いことがあるので念には念をというやつだった。
悲しみ?
そう、悲しみ。
悲しいとき、苦しいときは思い切って泣くといいと言ってくれた友人がいた。
伊武がひどく泣きにくい性質を持っているのを知って、「思い切って」という言葉をわざわざ添えたのだろう。泣いたら、泣いたら、このこころは神尾の幸せをよろこべるかな。
そうだとしたら、泣いてもいいのだけれど。
きっとそうはならないし。
なかなかままならない己の心と問答するにも疲れて、伊武はスイッチを一つだけ残して他はすべて切ってしまった。
「ん、深司? ……疲れたのかな」
「そうか? いっつもどおり涼しい顔してたのに」
「いや、神尾とのダブルスで神経使ったんじゃねえの」
「おい内村そりゃどういう意味だよ!」
「そこは察しなよ」
「森っおまえ!」
「こら、少しは静かにしてやれ」
対外試合の感想に沸いていたバスの車内が橘の一言で落ち着く。
伊武の隣に座っていた石田はごく慎重な手つきで、少し前かがみになって眠りそうになっている伊武の肩を引き寄せてやる。
「……重くない?」
「いいよ」
伊武は目を開けないまま問いかけて、自分よりも低くざらりとした声が優しい色に包まれてすぐ近くから返ってくるのを聞いた。汗と制汗スプレーと太陽のにおいがする石田の肩に一度頭をすりつけるようにして居所を探って、適当な位置に落ち着く。
試合をこなした後の石田の身体はあたたかく、ジャージごしにもその熱がつたわってくる。自分よりも高い体温は、妹たちや親友の面影を浮かばせるが、ふれあった場所からだけでも感じる質量のある筋肉のかたい感触がまったく別のものだと教えてくれる。
石田はやさしいな。
こんなの狸寝入りだってわかっているのに、黙って肩を貸してくれて、なにも聞いてこない。
ただ、いいよ、っていう。
それに比べたら神尾なんて、ひどい、ひどいやつだ。
ひどい、ひどいやつ。
だから、おまえのことが好きだとか、絶対に言ってやらない。
おまえなんか橘杏としあわせになればいい。
こっち、見るなよな。
20110826
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