くだらないはなし



図書室という場所は学校の中でもすこし特別だと森は思う。
出入りが特別に制限されているわけでもなく、学年を問わずさまざまな人が訪れて、しかも訪れる人々の目的は「本」に絞られていることが多いから、私語もよけいな干渉もない。
ただそれぞれが求める一冊を抜き取って、事務的な口調の図書委員に貸し出し手続きをしてもらい、古びた本のにおいをかすかに引きずりながらさっさと退出していく。

そこでは静寂がマナーであり、なにか、良識あるものとしての行動を強いられるような、いや、そのように振る舞う自分たちをすこしだけ誇れるような、奇妙に自尊心を満足させる空間だった。
しかも閲覧用に並べられた机は周りを本棚に囲まれた中、図書室の中で唯一光が当たる窓の近くに静かにたたずみ来訪者が椅子をひくのを待っている。
そこに着席した者は否応なく利用者の目線にさらされることから、積極的にそのスペースを利用しようと言うものは少ないという、情けない状況にあるのも、どこか好ましい。

ここは中学生の自尊心と、すこしはずれ者になってみたいという欲を、適度に満たしてくれる空間として機能する。
古い本の香りが、人がひたひたと上履きをならして行き交うたびにゆらりと波打つ図書室は、森が部室やコートの次に好む空間だった。

そして今日も、教師の気まぐれにより早めに切り上げられた授業のおかげでほんの少し長くなった昼休みを有効に活用すべく、森は特別教室がずらりと並び、さらにその奥まった場所にある図書室へ足を踏み入れる。
この、長い廊下を歩いてこないとたどり着かず、一般教室からはかなり遠い場所に作られているのも、この図書室があまり人を呼び込まず、限られた利用者の中で一種の穏やかな連帯感が形成される所以だろうか、などと思いながら。

他クラスはまだ授業中なためか、見回した限り静寂が広がっている。
森は、本がおしゃべりしている、本が呼んでいる、などという図書委員の女子の一部がひっそりと話すことはあまりわからなかった。
だから、貸し出しを担当する委員すらいない図書館は静かだと思う。
もしここに納められている本が彼女たちのいうようにおしゃべりをし始めたり、あまつさえ人を呼ぶようなことがあったら、この場所の価値は大きく目減りするに違いない。
書架は沈黙を保ちただ歳月を重ねたが故の威厳と埃をうっすらまとってそこにある。
それでこそ、図書室のあるべき姿だ。

天井までとはいかないが、そこそこの高さで視界を遮る書架の小さな迷路をゆっくりと流す。
目的の棚は決まっているが、流し見る本のタイトルに引っかかる程度のアンテナはのばしていたい。

しかし、そのアンテナには別のものが引っかかった。

決して広くはない本棚と本棚の間に沈み込んでいる学生服の黒。
見間違いではない。
素通りしかけたところを引き返す。無意識のうちに、足音をたてないように気を払っていた。

学生服が見えたのは突き当たりだから、彼は三方を壁と本棚に囲まれている。
その中で、背中を書架に預け、通路に降り曲げた足を放り出している姿。
普段の森だったら、「さぼり?」と首を傾げつつ、見て見ぬ振りをする。

なにせこの学校ではごくつまらないところからケチがつき、なぜか巡り巡って見知らぬ三年生が怒鳴り込んできたり、クラスメイトから「頼むから気をつけてくれ」と懇願されたりする。
こんなところできっと四限をさぼっていただろう人間には関わらない方がいい。

しかしそれがごく見慣れた人物だったら、むしろ関わらなければならないだろう。
ことりと傾けられた頭部から流れる黒髪が、本棚に遮られて少ししか届かない明かりのなかでよわく光を反射している。
あんなにきれいな髪を伸ばしていて、しかも男子の制服を着ているなんて生徒、この学校には一人しかいない。

「……伊武?」
特別意図しなかったうちにこぼれてしまった呼びかけは、スピーカーから響きわたるチャイムにかき消された。
と同時に、無機質な電子音が静謐な空気をさらに乱す。
のろのろとした動きで携帯電話を引っ張りだし、ほとんど画面を見ることなくその音を止めた学生服の影は、ようやく顔を上げて森を見た。
常よりも少し内側に寄っている眉と、いくらか眠そうに瞬いている目、そして弛緩してわずかな隙を作っている唇のそれぞれがなかなか巧妙にマッチしている。
一言でいうなれば男女の別なくぐらっときてもおかしくない表情だったわけだが、森に関してはそのような心配はない。
美しいものでも、見慣れれば十分に耐性がつくという良い見本だ。

「ひょっとして、さぼってたの?」
「……そう。さっき物理だったし……」
確認してみると、いつもにもまして聞き取りにくい声で返事がある。
寝ていたようだが、なにもこんな場所で、とも思う。案の定体が痛むらしく、黒い学生服がごそごそと身じろぎをして慎重にあちこちの筋をのばしている。

血の気が引いているのかと思うぐらい白い横顔はまだぼんやりとしていて、試合中にみせる鋭利なそれとはまるで違っている。
出会ったばかりの頃の伊武は、今よりもずっと冷たい幕を自分の周りにひいていて、森に近寄ることすらためらわせるほどだった。
上級生に絡まれているところに割って入ったら、逆にひどく怒らせたことも強く印象に残っている。
それなのに、今はこんなにも無防備な姿を平気でさらしているなんて。
そう思うと、なかなか感慨深い。
今も、近づいていっても一瞥をよこしただけで特別嫌がる様子はなかった。一年前は、なれ合うことすら拒絶して距離を置いていたというのに。

「物理? 伊武って物理得意なんじゃなかったっけ」
「得意だからでなくてもどうにかなるんだろ。苦手科目さぼってどうするんだよ……」
手招きで促されて、すぐ隣に同じように腰を下ろす。背中を本棚に預けてみるが、本の背と棚がそろっていないのでごつごつと居心地が悪い。
「……平気でさぼるわりには、堅実だよね」
「あいつらと一緒にしないでくれる」
あいつら、とくくられるのは神尾と、内村と、ひょっとしたら桜井もだろう。
彼らはなんだかんだと理由を付けて、よく授業を抜け出している。毎回のように、テスト前に苦しむことになるにも関わらず。
森は少し笑いながら、身体をずらしてせめてあまり痛くない体勢を探した。なかなか、難しい。
よく利用する場所だとはいえ、まさか書架を背もたれとして使おうとしたことはなかった。
伊武はこちらの目的で来ることの方が多いのだろうか。

「考えごとするにはいい場所だよ。人いないし、いても見て見ぬ振りされるし」
どきりとした。考えを読まれたわけではないだろう、きっといつまでも身体の収まり場所を見つけられずもぞもぞとしていた森を見かねたというところだ。いくら伊武でも、人の頭の中を覗けるわけがない。
しかし、いても見て見ぬ振りされるから「いい場所」とは。

「……邪魔したかな」
「相変わらず深読みしすぎ……」
あれ、と思う。
普段の伊武ならこういう森の言葉にはきついぐらいの調子で返すのに、今日はずいぶん声が弱い。
最後は寝たようだが、授業を抜け出してまで考えなければならず、さらにここまで伊武を弱らせる懸案とは、なにがあるだろう。

伊武は相当な個人主義者であることは間違いないと思っている。ただ、それには高いプライドが、森に言わせてしまえば責任感とも言い換えられるものがついて回る。

チームの勝利のために組まれたオーダーでシングルスに回された森と内村を前にして、絶対に負けないと静かに宣言した伊武の瞳に宿る覚悟に身体が熱くなったことを覚えている。
コートに一人で立つ伊武は、チームの勝敗の行方と、森たちの無念まで背負っているのだと気づいて、指にフェンスの跡が赤く刻まれるほど手に力を入れて声援をとばした。
それ以来だろうか、伊武がコートの外であっても、チームを引っ張る戦力の一角として強すぎるほどの自負をもって行動していることを感じるようになったのは。

一時は近づいた距離がまた少し離れたように思えて寂しかったことは確かだが、それ以上に、決して器用とは言えない伊武が、己のプライドをかけてチームを引き上げようとするのをずっと見ていた。
心強いとも思い、安易に「頼ってくれ」と言えない自分に悔しさを感じもした。
ただ、もし伊武が自分を必要とする時がくるとするならば、この不器用にまっすぐ立つ友人のために、何でもしてやろうと思っていた。

今が、そのときなのだろうか。
森が伊武と同じ立場に立てないように、伊武もまた森の話を理解はできても実感としてつかめるものではない。そして伊武も森も、互いが中途半端な共感を示されることが疲労につながることを知っていたから、立ち入らない一線を暗黙のうちに引いていた。

森が速攻オーダーでシングルスに回される悔しさを決して伊武にもらすことがないように、伊武も捨て試合を組まされた仲間に、その分課される勝利への重圧を分かちあってもらおうとはしない。
決して気にかけていなかったわけではないけれど、森に内村がいるように、伊武には神尾がいた。
けれど今の伊武の様子を見ていると、どうやらそう楽観的に構えていられる場合ではないらしい。
そもそも伊武がこのような姿を森にさらすことが妙だ。

黙っている伊武の横で、同じように思考にくれる。ここに座るように促したのは伊武なのだし、少なくとも隣に居られて不愉快な状況ではないのだろう。
近寄られたくないのであればとうに追い払われているはず。
けれど、自分は伊武の何を知っていると言えるのだろう。互いにわかっていて線を引いたが、少し邪魔だ。


「くだらない話なんだけどさあ」
いつしか背中に当たる書架の違和感も忘れ、じりじりと声を発するタイミングをはかっていた森の肩がはねた。
「……なにか用事があるなら行けば」
「あ、ごめん。……聞いてく」
「そう」
伊武が本当に言いたいのは、用事があるなら、ではなく、「居づらいなら」なのだろう。相変わらずわかりにくい気遣いだったが、おかげで森も話を聞く意志を伝えられた。
結局、線を越えてきてくれたのは伊武の方か。

「くだらないっていうか、なんだろ。まあいいか……最近、ずっと損な役回りでさ」
首をひねりながら、伊武はぼそぼそとした平坦な声音で話し始めた。
書架の間を歩きまわる足音や貸し出しのやりとりがかすかに聞こえ、ともすればそこに紛れていってしまいそうな声のふるえから、迷いや、悲しみが滲みはじめる。
聞き逃さないように、森はそっと視線を伏せて伊武の声に集中した。


わからない、と彼は言う。
ごく自然に、ただそうするべきだと思うから、そのように行動して、なぜこんなにつらいと感じるのだろう。
これは罪悪感に近い。
彼が幸せになるように、ただそう思って行動するのが辛くなるなんて、信じられなかった。
わけがわからない、そう何度も繰り返しながら、悲しそうな声はか細く続く。

伊武は己の心が己を裏切るさまをじっと見つめていて、やがて自分の瞳がひっそり陰っていくことに気づいた。それを見られたくなくて、距離をおいた。

すると、いままで当たり前のように共に行動していたことを知っているこころが違和感を訴える。
対岸からもまた、同じ声がする。
その呼び声に答えようとすると、また別のところが悲鳴をあげる。

やがて平静を保てなくなり、しまいには授業をさぼってここで考えていたのだという。

学内にいながら、すこしだけ教室からも部室からも逃れられる数少ない場所のここで。


「なんかこうやって人に話すと、余計くだらないことに聞こえるよな」
伊武はすこし後悔しているような、苦い顔でうつむく。

森は短く「くだらなくなんかない」とだけ言い、意識して口をつぐんだ。
これ以上を言うのは、出過ぎるだろうかとも考えながら、うつむいてしまった横顔に、丸められた背中に、かけるべき言葉はないのか。
なにか、ないか。

「月並な経験論だけど、苦しいときは思い切って泣くのもいいよ」

やっとのことで口にした台詞が空々しく響き、森も後悔する羽目になった。
しかしこれ以上を越えたらきっと互いに悪感情がもたらされる。
そんな、おそろしい予感がある。
決して、自分の隣で泣けとは言えない。それが森と伊武の立ち位置だった。

伊武はしばらく考え込んでいたが、ふと顔を上げ、森をまじまじと見た。
「俺、森が泣いてるところ見たことないんだけど」
「俺も深司が泣いてるところなんて見たことないよ」
辛いときに隣にいるのは互いじゃなかったから、それは当たり前だよ。
どこか冷静に考えながら、森は努めて軽く聞こえるように声を作った。

「そうか。……そうだね」
何度かうなずいて、ふいと立ち上がって去って行く伊武のすがたを視線だけで追った。
きっと二度目の同意は、森と同じところに行き当たったからだ。だから伊武はここを去る。

彼はどこで泣くのだろう。
もしそれが、彼の一番の親友の元ではないとしたら、たとえば伊武がここで一人で泣いていたのだとしたら、彼らは二人とも不幸だ。


「泣いてなかったよ……ね」

本が答えてくれればいいのになあ。
さっきまで考えていたことと真逆のことをねだってみて、あまりのくだらなさに苦笑いした森も、やがて立ち上がって去っていった。






20110826

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