チェイン
「テニスしようぜって、言うだけなんだけどな」
桜井は二学期始業式の式次第が印刷されたプリント一枚を片手に、まだ人気の少ない職員室を後にした。テニス部顧問との軋轢を筆頭に、良い思い出があるわけではないから内村や神尾は明らかに遠巻きにしている場所だ。
しかし、そもそも職員室に来ることが楽しいなんて中学生は、自分たちとは別の世界に生きているのだからそんな不満にかまう必要はない。
むしろ一番職員室に足を運びたくないのは、転校早々に仮にも教師である顧問に暴力という形で正義を語ってしまった橘ではないのだろうか。
おそらくこういった心配は余計な世話だと一笑されることだろう。だから桜井は部室の鍵当番に関しては全員平等に割り振ったローテーションを回していた。
おかげで部の全員が月に数回は前テニス部顧問の顔を見る羽目になったが、大きな問題は起きていない。
夏休みも終盤にさしかかり、職員室では日直ほか数名の教師が机に向かっていた。
そのなかにあの男の姿もあった。相変わらず互いに干渉はない。
どこか呆気ないとも感じる。
彼は桜井たちを疎んでいたわけではなく、単に部活動というものに興味もなにもなく、ただ「面倒」だっただけなのだと腑に落ちるにはずいぶんかかった。
新テニス部創設後の雑務で、橘は数度この前顧問の元を訪れていたらしいが、互いに事務的なやりとりをしたのみだと言っていた。
神尾はいまいちすっきりしないという顔をして、それが態度にも明確に現れている。しかし背中を丸めて事務椅子におさまり、机に向かっている姿を遠く眺めると憤りも霧散してしまう。
橘の手によって、自分たちは彼と接しない世界にすくい上げられた。あれほど憎かった男も、今となっては特に接点のない、どうにか名前と顔が一致しているだけの教師の一員になり果てた。
相手がそうだったように、桜井もまたテニス部顧問ではなくなった教師に関心がない。
神尾や内村のように、怒りや憤りを持続するエネルギーを持っていないのかなあ、と他人事のように考えてはみたが、かといってその分のエネルギーやらなにかが、他のどこに活かされているのかなどと考えるのは馬鹿らしい。
とにかく、テニス部前顧問と桜井の関係をこのように塗り変えた当の橘は、全国大会打ち上げの場で部長に神尾を、副部長に桜井を指名して、以来ふつりと姿を見せない。
九州に家族旅行という話だったが、おそらく進学がらみだろうと桜井は考えている。
そうでなくとも、橘は自分が引退した後の二年生に最高学年としての自覚を持たせるため、接触を控えただろう。
さびしさを感じなくはないが、反面、見ていろと思う。
あんたがすくい上げた寄せ集めがどれだけ成長したか、あと半年しっかり見届けて、安心して出ていけ。
こんな後輩をもったことを誇りに思うとでも言わせてやろう。
卒業式には泣けばいい。
そして二年生も全員泣いて、最高の花道で送ってやる。
だから、これはその第一歩だ。
日が当たらないせいか少しだけ外よりも涼しく感じる廊下に、桜井の上靴がぺたぺたと音を響かせる。
冷房のきいた職員室で予想外に汗が冷えた名残を楽しみながら、桜井は手元の紙をきれいに二つ折りにしてから再び開き、じっくりと眺めた。
始業式式次第の中に含まれる、部活動報告の文字。
大会の戦果に程度の差はあれ、どの部も部長が壇上にのぼり、一年の活動報告ををする。そしてステージを見上げる全校生徒の中に紛れる次の世代になにか視線を送るなどしながら、一礼して壇を降りる。
そうやって、一つの区切りをつける。
一年前の二学期始業式は、橘が革命を起こし始めたただ中のことだった。
いかにもどうでも良さそうなポーズをつくって、都大会三位でした、と告げた部長の姿に歯噛みしたのを覚えている。
他部の部長たちも、淡々と報告をしては壇を降りた。
部内ではやはりなんらかのドラマがあったのかもしれないが、それを全校で共有できるほど目立つところはない。
うちはどうだろうか。
全国大会出場、前回準優勝の牧ノ藤を破ってベストエイト。インパクトは十分にある。
しかし昨年度は暴力沙汰をおこし、秋の新人戦は出場を自粛させられた過去がある。新入生への勧誘活動も制限され、尾ひれがついた噂だけがでまわった結果、入部希望者はなかった。
職員室から持ち帰った式次第には、報告をする部の一覧も添えられている。その中、『テニス部、発表者橘』の横に但し書きで『二年生による部員募集』の文字がある。
これが、先ほど桜井が職員室へ出向いていた理由だった。生徒会と教員の双方から了解がでたから、段取りを確認しに来い、と。
生徒会担当の教員と簡単に打ちあわせをしていると、横からすごかったわねえ、がんばってね、と声がかかる。
その声援は無責任だと憤る気持ちがないではなかったが、ここで評価を下げるわけにはいかない。
愛想良く会釈をして、いらだちがつのる前にさっさと撤退した。
とにかく、全校生徒が聞いている場で部員募集ができるのだ。
部員が入らなければ、これから団体戦へ出場できなくなる、というのも本音ではある。
差し迫ったところでは、秋の新人戦の出場が危うい。
しかし、なにより自分たちが起こした騒動の噂で、テニスをしたかった一年生が入部を諦めたというようなことがあれば、今からでも遅くないと言ってやりたかった。
一緒にテニスしようぜ、と。
怖い場所じゃない。荒れてるなんて大嘘だ。
初心者だって教えてやる。なんだかんだと、面倒見がいいやつらがそろっている。
そしてなにより、テニスは、楽しい。
「ま、喋るのが神尾じゃ、それも上手く伝わるか不安だけどな」
人前で改まって話そうとすると、すぐに内容をぶっ飛ばしてしまう友人の顔を思い浮かべながら、桜井はぶらぶらと歩いていく。
森あたりに原稿書いてもらおうかなあ、などと考えながら。
長く薄暗い廊下の先、開け放たれた昇降口から残暑の気配を漂わせる熱気が吹き込んでくる。
それを追いかけるように、暑さに負けじと気炎を吐く運動部のかけ声が聞こえてきた。
夏休みも、もう残り一週間を切る。
――
桜井は神尾が緊張することを心配していたが、実際はそれ以前の問題だった。
ステージの袖中で、順番待ちをしている間から神尾はうつむいている。
ステージ上では他部の部長たちが粛々と報告を続けていて、トリを任せられた男子テニス部は暗がりでの待機が長い。
最初は小声で雑談をしていたが、文化部の発表が終わり、運動部の報告が進むにつれ神尾の頭は徐々に沈んでいった。
「なんだよお前」
「だってよう」
桜井にはだいたい予想がついていたので、無言で頭をたたいてやる。
大方、繰り返される「僕たち三年生はこれで引退ですが」という言い回しに涙腺を刺激されているに違いない。
神尾の隣には、橘がいるというのに。
「余所の話がそんなに感動的か?」
その当人はどこかずれていたが、おそらく今回はわざとだろう。
全校生徒の前での発表に緊張する様子もない橘は、パイプ椅子のカートに寄りかかって笑っている。その隣に神尾、桜井と並んで順番待ちだ。
「いや、ちがいますよ!」
「アキラ……お前、涙声になってる」
指摘しながら、桜井は神尾の手の中でぐしゃぐしゃと皺になっている原稿をそっと取り上げておく。このままでは涙で滲みかねない。
森と伊武が半日顔をつき合わせて練り上げた文章だ。
粗末に扱うと軽く祟る気がする。
「なんだ。泣くな、神尾。今からがお前たちの大切な勝負だろう」
「やめてくださいそういうの……」
えげつなく泣かせにかかる橘に、思わず苦笑がもれる。
この人も、随分と変わった。
弱い声で抵抗する神尾の涙腺が陥落してしまう前に、テニス部の順番が回ってくればいいのだが。
まあ、泣いたら泣いたで、神尾はしれっと袖の中に置いていって橘と二人で報告をするか、反対に壇上で「この泣き虫が部長です」と紹介してやればいいか。
どちらが良いかなあと半ば本気で思案している桜井は、進行役の生徒会役員の声で男子テニス部お願いします、とアナウンスされ、「タイムアップ」と呟いた。
最終確認。神尾の顔をのぞいてみる。
暗がりの中で、片方しか見えないその目の縁に薄い涙の膜が張り、てらてらと光った。
瞬きをしない。
目線があわない。
「こいつはデンジャラスですよ橘さん。ちょっと段取り変えて、最初俺にマイクください」
「ああいいぞ。しかし、これは部長冥利に尽きるってものだな」
桜井のため息にも満足そうに笑う橘は、ゆったりとした大股でステージ中央に設けられた演台へ向かう。
神尾も一応するべきことはわかっているらしく、ぐいと唇を引き結んだまま後に続いた。
蒸し暑い体育館中に拍手が起きている。
まだなにも言ってないのになあ。
桜井はセットした髪を確認するように一度触れ、神尾の背中を追う。
少しだけ時間稼いでやるから、涙ひっこめとけよ。
三人がステージ中央に並び、橘にあわせて軽く一礼すると自然に拍手はおさまった。軽く橘とアイコンタクトを交わして、桜井が前に進んでマイクを握る。
「こんにちは。男子テニス部、次期副部長の桜井です」
ゆっくり、そしてはっきりと話す。何事も最初が肝心だ。唇をしめらせる。
「今日は全国大会の報告に加え、新入部員募集の時間をいただきました。生徒会のみなさん、各部部長のみなさん、そして先生方、快い承諾をありがとうございました」
桜井はここでマイクを握った手をすっと下ろし、姿勢良く礼をした。
これぐらいのリップサービスは不自然ではない。
誰も、泣きそうになっている新部長のための時間稼ぎとは思わないだろう。
体育館はわずかにざわついているものの、視線の多くは演台に立つ桜井と、後ろの派手な金髪に集中している。
これはなかなか気分がいい。
ステージを見上げる者のなかには、桜井が確かに取り付けた約束を切り捨てたテニス部旧顧問や、かつてその拳でもって桜井たちを痛めつけた上級生もいる。
その暴力に耐えきれず、テニス部を去った者もいる。
そして、全国をともに戦った仲間たちがいる。
彼らは一様に、壇上の桜井たちを見ているのだろうか。
実に良い舞台だ。
あの不良たちはひょっとしたらいないかもしれないが。
この夏、一番の戦果をひっさげて凱旋したのは間違いなく男子テニス部だ。
勝てば官軍と、歴史の教本のなかにある言葉を思い出す。教師にアイアンクローをかました部長が牽引したような部でも、全国でこれだけ成果をあげてくればそれなりの待遇をいただけるということだ。
ひっそりと皮肉っぽく笑った桜井は、再び背筋を伸ばしてマイクを口元へ。
「ではここから、大会の報告を部長、三年橘、部員募集については次期部長、二年神尾に引き継ぎます」
橘にマイクを手渡して、下がる。一瞬だけ橘と目があった。笑っている。
状況は好転していないらしい。
「テニス部部長、三年の橘です。我々男子テニス部は全国大会に出場し――」
「アキラ、前見ろ。前見たまま聞け」
桜井は落ち着きのある声で語りだした橘の背中を見つめながら、横の神尾に絞った声をかける。
「ひょっとしたら、この中にチームメイトになるやつがいるかもしれねえ。おまえや伊武を越えるエースがいるかもしれねえ」
正直そんなエース級がごろごろいたら、俺の立場は非常に難しくなるが、今はとりあえずおいてこう。
「俯いて泣いてたら、見えるもんも見えねえだろ」
あの頃、俺たちが俯いたら世界がいっそう暗くなったのを思い出せ。
顔を上げさせてくれた人が、今俺たちにバトンを渡したんだ。
重いか、神尾。
じゃあ一緒に持とうぜ。いつだって、いくらだって持ってやる。
それはお前ひとりのものじゃない。
だから、顔をあげて前を見ろ。
視界の端で、神尾の頭が一度揺れた。そして、あごをぐっと引いて、前を見据える気配。
そうそう。
「つーかその涙は別の機会にとっとけ。枯れるぞ」
「うるせえ……っ」
気張りすぎても困るから茶化してみると、こわばった声で叱りつけられた。
涙が引っ込んだと思えば、次は緊張か。
忙しいやつ。
報告を終えてこちらを振り向いた橘はやはり笑みをたたえている。この貫禄を、一年後の自分たちが持つことができるかと問われたら、桜井には自信がない。
ただ、それが悪いことだとも、思わない。自分たちが橘を真似るようにして後輩を率いる必要はない。ただ、橘が残していってくれたものを受け継いで、自分たちのやり方で次の世代に渡すことができればいい。
桜井は神尾の手の中に原稿を返却し、行ってこいと背中を叩く。ぎこちなく前に進んだ神尾は、橘からもすれ違いざまに激励をもらう。
それがよほど強烈だったのか、「いてえっ」と素に戻って小さく叫んだ。
ほら見ろ。お前が今から威厳ある部長の顔をしようとしたって、無理な話だ。
その様子が分かった前方の一年生の中に小さな笑いが起こり、橘の堂々とした発表に気圧されてさえいた空気がほどける。
「なんだ、大丈夫じゃないか」
「はい」
うなずいた桜井が見つめる先で、少しばかり醜態をさらして緊張が抜けたらしい神尾がいつもの元気を取り戻し、原稿にアドリブを交えつつ話しはじめている。
橘は、自分とは明らかに違うタイプの部長になるだろう神尾の姿を見て「大丈夫」と言った。
俺たちがするべきことを、この人もわかっている。きっと笑いながら神尾を見ているはずの仲間も、同じことを考えているだろう。
これは第一歩だ。横に並び、静かな目で神尾を見守る橘の気配を感じながら、桜井はぐっと拳をつくった。
そうやって、一歩ずつ地を踏みしめて歩み、この人の卒業を飾ろう。
そして俺たちは俺たちなりの花道をつくっていく。これから、一年かけて。
だから今、男子テニス部は全校生徒に呼びかける。
遠慮無くマイクを通した声で、体育館中に響くように、堂々と告げる。
「テニス、一緒にやりましょう! 楽しいっすよ!」
20110817
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