へだたり

昼間はあたたかな陽気を届けてくれていた太陽が赤く融けて落ち始めると、いっそ白々しいほどに世界の色が変わる。
授業終了のチャイムを聞くごとに、体が理不尽にまき散らされる暴力への恐怖を思い出して震えていた。それでも足はコートへ向かう。
自動的に、途絶えない痛みに軋む森の体を運んでいく。

夕焼けに染まる空を見上げるのが嫌いになった。
口の中の砂利を吐き出して顔を上げたときに、そこに広がる景色があまりにきれいだとやりきれない。
コート上に森が望んだものは何一つなかった。
上級生という肩書きと、一、二年分の体格差に蹂躙される時間だけが彼を待ち受ける。
なにを望んだのかすら、磨耗した心は見失おうとしていた。

ラケットを握ることも許されないテニス部から、それでも名前を抜かない一年生はわずかだった。
最初はなにが起きているのかを受け入れることさえ苦痛だった。まさか自分の中学生活にこのような災厄が降り懸かるとは思っていなかった。これがフィクションであれば、逆境の中で培った絆や、テニスにかける情熱といった目に見えないものの力によって形成はひっくり返るものなのに、まったく現実は甘くない。

入部して一ヶ月弱。
話が合うかと思った者ほど早く辞めていき、同じ小学校の出身者や、クラスで意気投合して一緒に入部した友人などは残らなかった。
今残っている顔ぶれの半分以上は、部活がなければ例え同じクラスであってもあまり馴染まないまま過ごしていたような類の人間たち。
中でも突出して高い実力を持った神尾と伊武は、初練習の段階から学年を問わず目を引いていた。

一年生だけでコートを使えるわずかな時間に二人が自由に打ち合っているのを目にしたとき、一瞬でかなわないと思ってしまった。
もちろん、そう考えてしまう自分への嫌悪も同時に沸き上がる。
それでも心をひっかいていった思考は消えない。万が一環境が変わっても、この二人がいるかぎり、レギュラーなど取れないのではないか。
こんなことは、誰にも言えない。

そんな日々。


だからこそ、目の前の光景に打ちのめされた。

人一倍執拗にしごかれても、決して膝をつこうとしなかった二人がコートに手足を投げ出している。
「俺ら後で行くからさ。先に水道使ってこいよ」
そういって、森をはじめ、今日も手ひどくいたぶられた他の一年全員を手洗い場へ送り出した神尾は、唇がにじむ血をべろりと舐める。なんでもなさそうな顔をしていた。伊武も同様に、いつも通りに。
二人がそうやって水道を使う順番を譲ってくることは珍しくなかった。傷を洗い流し、のどを潤して戻ってくると、決まって二人はラケットを持ってネット越しに向かい合っているか、顔をつきあわせて何かを話しているかだった。
実力的にも抜きんでた者同士気が合うところがあるのかと、特段気にすることはなかった。
それどころか、余裕すら伺わせるその態度に、どこか安心していた。

過酷な状況にあっても、何度でも地を踏みしめて立ち上がる一年の星。
理不尽なしごきを乗り越える体力と精神力、そして学年差をものともしない二人のテニスの実力が、同じ状況に置かれた森の拠り所となっていたのに。
それは全部、彼らが必死でつくり出した幻影だったのか。

二人は英雄ではない。
それはごく当たり前の、そして受け入れがたい事実。そして森自身の弱気を投影する鏡でもある。


「っくそ、腹は地味にあと引くよな。まだなんか気持ち悪いし。あとなんか血っぽい」
「転がってないで口ゆすいでくれば。血っぽいって、それ口の中切ってるだろ」
気だるく手足を投げ出している神尾が空に言葉を放り投げると、すぐ近くの伊武から返事がある。
片膝を胸に引き寄せて抱えた状態で座り込んでいる伊武は、砂埃にまみれた髪もそのままにしている。額を膝に押しつけて、その表情は伺えない。
最も、伊武は細い背中をほとんど森に向けているかっこうになっていて、たとえ伊武が顔を上げていてもきれいな曲線で作られた頬のラインぐらいしか見えなかったろうが。

けれど森はその目がどれほど凍てついているかをもう知っていた。
彼は冷ややかな軽蔑を隠そうとしない。テニスでは彼に到底及ばない上級生はもちろんのこと、時には同じ学年の者にさえ対象となった。
その、どれほどの暴力にさらされようと伏せられることのなかったあの強い瞳が、見えない。

彼はいまどんな顔をしている。今まで見せることのなかった、こんなにも疲労を隠さない有様で。あの目、あのすべての弱者を侮蔑する温度の無い目は、どうなっている。
見たいか。知りたいか。
いや、認めたくない。
伊武が打ちのめされたところなど、見たくはない。
森の感情の一切は現実を拒否したがり、目の前の光景に干渉することを拒絶した。
足は釘付けになり、舌は上顎にへばりついて少しも動かない。
これは弱さだ。
ただ立ち尽くす。

洗い流した大小の擦り傷が、水の冷たさを忘れて燃えるように熱をもった。森が動きを止めても、血は正常に体内を巡り、傷口には赤がにじむ。
鼓動と血流がうるさく神経を刺激した。
ひとの心は心臓のある場所に宿ると考えたのは誰だった。
彼は嘘を言っている。
もしそれが本当であれば、この心臓はとうに息の根を止められているはずだ。
恐ろしい絶望と羞恥によって。


「水道行くのももう面倒でよー。だいたい時間がもったいねえ」
「嘘だね。立ち上がれないぐらいやられたんだろ。あいつらが帰った時はまだ余裕ありそうな顔してたくせに」
「ああ? お前も似たようなもんだろ」
軽い反動をつけて上半身を起こした神尾の腕が無造作に伊武の肩にのびる。
伊武は警戒するように身を引きかけたが、その手がジャージを汚す砂を払うだけと知るとそれ以上の抵抗はしなかった。
薄汚れた二つの背中が並んでいる。
体操着から伸びる手足の細さも、肩の薄さも、いままで意識したことはなかったのに。森には急に、彼らの体つきがほとんど自分と違いのないことを強く感じた。


「前から思ってたけど、お前ってほんと口悪いよな。だから余計な恨み買うんだぜ」
「じゃあその傷も俺のせいとか思ってるわけ? 八つ当たりもいい加減にしろよ。だいたい、今日ランニング増やされたのって神尾がペース調整ミスしたからだろ」
「……もうあんな下手うたねーよ」
思うところがあったのか、神尾は背中を丸めてうつむく。
常に先頭を走る神尾がなにを考えて走っていたかなど、森は知らない。今のように、ずっと彼の背中を見て走っていた。彼がどんな過ちを犯したというのだろう。
森は記憶を探ったが、体が悲鳴を上げていたことしか思い出せない。地面を重たく蹴り続けた足の裏は、今もひどく痛む。

「ごめんな、森。今日あんな走らされたの、多分俺のせいだ」
急に、声がまっすぐに飛んできた。先ほどまで隔絶された世界に座り込んでいた二人が、一歩も動いていないのに森の領域に踏み込んでくる。
知らず、足下に視線を落としていた森は思いがけない謝罪に言葉がでなかった。
喉がひくつく。
なにを謝る。
この痛みの何割かを、自分の責任のように感じているというのか。

彼らは自分と同じ、ただの一年生だとわかったはずなのに。今もこんなに疲れた声をして、ついに彼らも自分と同じ平凡な中学生だと素顔を晒したはずなのに。
今度はその顔で、俺のせいだ、などと。
まるでなにかの力があるかのように、森が一時投影した、救い主のような言葉を吐く。
やめてくれ。
何者でもないなら、そんなことを口にするな。
口にするべきじゃない。
その棒のような足で、華奢な背中で、一年全員の痛みを受け止めることなどできないくせに。
なにも、できないくせに。

その言葉は毒だ。
森の疲弊しきった心をさらに蝕み、痛みのはけ口を作ってしまう。後悔するとわかっていても逃げ込まずにはいられない、底知れぬ誘惑がある。
いたぶられる口実にされがちな二人が、自ら責任を認めてしまえば、森の心は簡単に傾ぐ。楽なほうへと。
いままでそうしなかったのは、最後の意地だ。
踏みにじらないでくれ。頼むから。頼むから。
散々醜態をさらして、もう、これしか残っていないのだから。

答えない森に首をかしげた神尾が、伊武に視線を流す。
身じろぎして体の半分を森の方へ向けた伊武は、夕日に赤々と照らされる森を眺める。
その視線に森がおそれるたぐいの棘は含まれていなかった。
ただ静かに、森の体ににじむ血の色や、あるいは引きずってきたのだろう足や、目に見えないなにものかをきつく握りしめて解かれることのない拳を見ている。
爪が手のひらの肉を抉っていそうなほど固められた拳。振りあげることができたら、どれほど楽だろうと伊武は首をかしげた。
できないから、森は代わりに自らの肉を抉るのだろうか。
伊武はつらつらと思考を重ねる。
いくらかの親しみさえ溶けた瞳を一心にその拳に注ぎながら、彼なりに森の気持ちをはかろうとした。
顔を上げられない森には、気づけないことだったが。

「森さ、痛くないの、それ」
だからやっとのことで伊武が口にした言葉は、森に対しては全く別の意味をもって届いた。
「……見た目ほどじゃないんだ」
かたく折り込んだ指を解かないままの拳が、森の右目の上、ひどく皮膚が破れて血を流し続ける傷を拭う。
伊武は首を傾けるのみで、訂正も相づちもしなかった。
ただ、自分の言葉が意図通りに伝わらずにかき消える様を、今度こそ冷えた目で看取った。
ならいいけど、などと、神尾がつぶやく。


「……神尾、そろそろやろうか。十分休めたし」
「おう! ちょっと眩しいけどな」

立ち上がった二人につられて顔をもちあげた森は、コート上に散らばっていた籠とボールはネット脇に片づけられ、コート自体も卒なく整備されていることにようやく気づいた。
上級生がいる間はラケットを持ってその場に立つことすら許されないコートを二人だけで整えて、下校時刻までの短い時間で練習をしていたのだ。土と汗にまみれた体を拭うことすら後回しにして。
どこからそのような力がわいてくるのだろう。
どのような祝福を受ければ、苦痛に満ちた時間の後に自らにむち打つようなまねができるのだろう。
一体、彼らのなにが自分と隔たりを築くのか、森には理解できなかった。
ただ漠然としたいらだちと嫉妬と不安が、皮膚の下をはい回ってひどく気持ちが悪い。

「森もちょっと打とうぜ。朝しか練習できねーと勘が鈍るしよ」
「……えっと、」
口にしようとした続きは消え入り、舌は萎えて力なく歯列のなかに落ちた。誘いをかけた神尾は、ラケットを片手に森の返事を待っている。
沈黙。
伊武の指先がラケットを回し、元の位置へ。
数度繰り返される手慰みの間、伊武は手元ではなく森を見ている。
もっと内側まで見ているのかもしれない。
迷いや、気後れ。俺がいたら邪魔じゃないかな、云々。森にからみつき、口をつぐませ、足をぬいとめる葛藤を、伊武は例の凍えた目で射る。
先ほどかいま見えた連帯感は、すでに消えていた。

足を踏み出せば得られるものがあったのか。同じたち位置へ進む機会を、みすみす棒に振ったとは思わない。

彼らがいる場所はやはり遠く、森が歩み寄ろうとしても届くものではない。
神尾は無理解をもって、伊武は理解をもって弱者を疎外する。
違う。
これは意味をなさない妄想。
あるいは被害意識による救済措置。
彼らのさしのべる手を握れない事実だけが森を苛む。
その原因は彼らになく、ただ森の内にのみ動かしがたく存在する。

「森?」
「体がつらいなら帰って休んだ方がいいんじゃない」
「ま、そりゃそうだ。無理すんなよな」
既に関心を失ったように伊武は森の帰宅を促した。それにあっさりうなずいた神尾は、ラケットでボールを遊ばせながら森に片手を挙げる。

「朝練遅れんなよ!」
「……またね」

赤く燃える空気のなかで二つの影が別れを告げる。
逆光により、彼らの顔は見えず、ただ光にすけた彼らの髪が細工のようにきらめくのを森はしばし見つめた。
西日が目を焼く。
唇の端を持ち上げてはみたものの、笑顔と呼ぶにはほど遠く、傷ついた頬の皮膚が鋭く痛んだ。

明日の確証などない森は、ただ曖昧に笑った。
きっとこの笑顔は、次の日からふつりと部活から姿を消し、廊下ですれ違ったとしても挨拶すら交わさないようになった者が最後に見せたものとよく似ている。
どうしてそんな風にしか笑えないのか、今の森にはよくわかった。

眩しいから、悲しいから、悔しいから、目を細めて、強ばった表情をどうにか動かして笑顔らしきものを作ろうとすると、こんな顔になるのだろう。



やりきれない思いを抱えて向かった部室棟の陰で内村がじっと待っていて、脆く崩れた森の表情を見ないようにしながら「帰ろうぜ」とささやいた。






20110816

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