リミット
伊武は蓋を押さえつけることに疲れはじめていた。身のうちにたまるいらだちや焦燥を、時には思うがままにふりかざして人を傷つけたいと感じる。いや、ただひとりのこころを、傷つけたくてたまらなくなる。
伊武は疲れはじめていた。血の気の引いているような青い顔が鏡越しに自分を見つめる。その瞳に色濃くうずまく倦怠に気づく。
そのようなものをありありと見て取れるような自分への嫌悪に表情をゆがめ、洗面台の温い水の流れに手を差し入れた。
肌を伝う水もろとも、この己が心を食いつぶすだけの不毛な感情も拭ってしまいたい。
先日の部内紅白戦がよくなかった。
週末に迫った他校との練習試合のエントリーに悩みがあったのか、珍しく橘が伊武と神尾でシングルスを行わせた。読み上げられた組み合わせに、神尾が伊武をちらりと盗み見る。穏やかな春風に髪をさらわれながら、伊武は別段心を動かされた風もなく橘の指示を聞いていた。
今まで、この組み合わせが特別に避けられていたわけではない。人数が少ない環境なのだから、自然と練習試合の幅も限られる。それでも、大会が近づけばこのカードは減った。橘は二年のエース同士を競わせることで、伊武が本命の大会前に調子を乱すことを常に懸念している。それは当人たちはもとより部内の誰もが承知していることで、だからこそ誰もが平時より特別視、いや、警戒する組み合わせだった。
神尾などは試合後の切り替えがうまく、たとえ部内の試合でどのような結果がでようともぶれることはない。どこまでも強さを追う。その先にある勝利を掴むためには何をも差し置き、部内試合後には水面下ながら必ず発生する細かいしがらみに頓着しない面があった。
彼は試合内容について、よけいな感情を差し挟まずに議論することをとくに好む。普段の練習では見えにくい改善点を探ることに熱中するために、神尾と試合を行ったものはしばらくつきまとわれる羽目になっていた。
それは心根がしなやかに伸びる青竹の如く真っ直ぐであるからか、あるいは実力的に劣るものが抱く葛藤へ寄り添おうとしない強者の傲慢さがなせるものか。伊武は常々後者だと思っている。
無自覚だから、たちが悪い、とも。
伊武も神尾と同程度、あるいはそれ以上に部内戦の結果に対しての個々の感想などに興味を持っていないし、事実、彼自身も普段は目立って後を引いてるような素振りはみせない。ただ、その「普段」から神尾だけは除外されているらしく、勝つにしろ負けるにしろ、試合後はいささか心の平静を欠く。
理由を伴わない苛立ちを抱える伊武に、部員たちは適当な距離を保つことで対処する。そうしていれば、伊武はいつしか普段の調子にもどり、何事もなかったように彼らの傍らに立つのだから。
ただ、例によって神尾だけはそれができないために、他の部員のささやかな気遣いもさして意味をなさなかった。
「正直な話、最初にリードとられた時にあれって思ったんだよな。なんか深司が攻め方変えてきてるのかって。んで考えてたらリズムに乗り切れなくてよ。あれなんだったんだ?」
「それ俺がスロースターター気味とか言われてるから油断してただけだろ。甘いんだよ。だいたい最初からいつも通りリズムリズムうるさかったのに、実は乗り切れてなかったとか言われてもね」
伊武に黒星をもらった神尾は、彼の常どおりに自身の糧を得るために伊武につきまとった。昼休みともなれば、真っ先に昼食を片手に伊武の元へやってくる。伊武も神尾との試合後の常どおりに苛立っていたので、伊武と昼食をともにする石田は、意見を求められる度に内心大いに困っている。
困るぐらいならさっさと他に行けばいいのに。
お前も、俺も。
神尾が来るのを待っていたわけではない。いつも通り、教室で適当に食べ始めたところに神尾が来ただけで。
伊武が虚しい繰り言を胸の内で反芻しても、苛立つとわかっていながら神尾のおとないを待ってしまう理由はでてこない。
「油断ってなんだよ。俺がお前とやるときに油断なんかするわけねえだろ」
伊武はその言葉にかすかに眉をひそめ、挑むように自分を見つめる神尾をきつく視線で刺した。しかしすぐに逸らす羽目になった。予想以上に、まっすぐな目に見つめられたために。
神尾はこういうことを平気で言う。平静に聞いていられない自分が滑稽だ。
「じゃあ、それ以外のところに原因があるんだろ」
「そこを教えろよ」
「知らないよ。神尾がリズムに乗れない原因なんて、神尾にしかわかるわけない」
言葉を切り、食べかけの調理パンをビニール袋につっこんだ伊武を石田が見咎める。伊武が胃に収めた量は見るからに少なく、放課後の練習まで到底保ちそうにない。
「食欲ないのか」
「そんなとこ。心配しなくても、後でなんか食べるよ」
石田の顔色をうかがい、卒なく付け加える。その言葉の信憑性はいささか怪しいものだったが、伊武は自身の言葉を追求されるのをひどく煩わしがる。石田もそれ以上の言葉を控えることにした。
神尾には真似のできない芸当だ。
神尾は無造作に距離をつめ、かたく守っているはずの場所にそろりとふれていく。伊武のつめたくよどんでいる場所に、熱をともす。他の誰にでもできないことを、神尾はまったく無自覚に行い、最後までその意識をもつことはない。
そして、伊武も気づかせるつもりはない。これは理性か、あるいはプライドか。
虫の居所が悪いらしいと、勝手に納得してくれる優しい友人に言葉ひとつ、いや、目線一つも返せないほど、神尾の声は伊武のやわらかいところを荒らす。
許容しがたい。
頬杖をついて目を伏せてしまった伊武に興をそがれた様子で、神尾は石田に話をふりはじめた。
伊武は空いている手で、己の瞼をそっと押さえた。薄い肉をとおして眼球の丸みを感じる。同時に、鈍い疲れがぞろりと目の奥を通って頭の奥まで張っていくような気がした。
すぐ近くで、楽しげに会話を重ねる神尾の声が聞こえる。
深司は、深司は、と、神尾の口が己の名を語る。けれど、神尾は決して伊武が望むようにはその名を呼ばない。
彼は、そのかわりに「杏ちゃん」と言う。
神尾が想い人の名を呼ぶ声は、どうしてあんなにちがって聞こえるのだろう。その名を呼べるよろこびが一心にこもった声。普段よりかすかに甘く、どこかすがるような響きも持つ。すきだ、すきだと雄弁に語る、その人のためだけの愛の言葉。
その声でよんでほしい。
ただそれだけでいいのに、神尾は絶対にそれをくれない。
当然だ。彼は伊武に恋などしていない。
彼はただひたすらに、同じ学年で実力が拮抗している好敵手としての伊武を見る。そういう存在として、伊武を求める。全国を共に目指し、切磋琢磨する仲間。橘以外で唯一、自分と全力で打ち合える相手。
それも一種の特別視には違いがない。他の部員であれば羨望するものですらあるかもしれない。ただ伊武が求めていたものではなかった、というだけで。
そして伊武が本当にほしかったものの場所には、敬愛する先輩の妹がすでにいた。
その立ち位置は確固たるものであって、そもそも同性である伊武が立ち入る隙など絶無に等しい。それだけのことを、伊武は神尾をじっと見つめて理解した。本当はすぐにわかっていた。ただ、もし神尾が橘杏から一瞬でも目を離し、自分を見ようものなら、そこに鋭い毒針を打ち込んでやるつもりだった。
最初はその鋭さにちいさな違和感を得る。やがていつしか自分と距離を置くようになった友人が気にかかり始める。曖昧な戸惑いと不安が交互に彼の足にからみつき、己の気持ちにすら不安を覚え、いつしか両足ともに黒々とした大地に縫い止められる。
そんな都合のいい毒が塗りたくられた針は、伊武の身のうちにじわりとにじみ溶けていった。神尾に届くことのないまま、消滅した。
毒だけが血とともにまわる。
目の奥から後頭部まで響くような鈍痛が断続的に訪れる。
頭痛に苛まれながら、伊武は幾度かのチャイムを意識の奥底で感じていた。
視覚から流れ込む白い文字と同時に右から左へ流れていた言葉が、いつしかふつりと途切れた。薄い闇が視界の端ににじみ、手元のノートに綴った字にすら焦点が合わない。
頭痛はやがて強いめまいに変わった。
口の中で毒づいたが、乾いた舌はうまく動かなかった。
授業にまったく意識をむけず、それどころか具合すら悪そうな友人を見ていられなくなった石田が授業を遮って挙手をしたころには、伊武は誰の目からも貧血を起こしているように見えた。
あいつ死にそう、と誰かがつぶやく。
ゆっくりと浮上した意識のなかで、雨音ばかりが聞こえていた。
授業の騒音はどこへいったものかと伊武の鈍い思考がまわりはじめ、やがて己の躯が固い椅子の上にないことに気づく。
授業中にさんざん苦しめられためまいの残滓を頭の片隅に感じながら、先ほどよりは随分軽くなった瞼を持ち上げる。視界に入る天井は淡い色のカーテンによって区切られていた。保健室か、と認識すると同時に、無意識に動かした指先が何かに触れた。
「ん? ああ、起きた」
これはどんな悪夢だ。
何度か瞬けば目の前の幻は消えるのではないかと試行したが、残念ながらそれは幻のように優しいものではなかった。
「大丈夫か? 貧血って聞いたけど、その、気持ち悪いとかないのか?」
神尾が身を屈めて顔をのぞきこんでくる。その動きでベッドのスプリングがかすかな音をたてた。
言葉もなく、しきりに瞬きを繰り返した伊武の様子に不安をあおられたのか、神尾の瞳がさらに近づく。
「なんだよ。あ、まさか怖い夢みたりしたのか? あれきついよな」
なんか嫌な汗かくし。
一人で勝手に納得してしまった神尾の首にはヘッドフォンがかかっている。
どうやら伊武のベッドに腰掛け、この雨音しかノイズがない空間で好き勝手に音楽を聴いていたらしい。耳をすませば、かすかにギターが歌うメロディラインがわかる。
それほどまでに距離を詰められた伊武は、身じろぎして視線をはずす。
「神尾、授業は?」
「もうとっくに放課後。ついでにこの雨のせいで室内練、しかも深司が体調悪くて休んでるって石田が言ったら、橘さんも最近練習きつかったかなーって時間も短縮してもう終わり。あ、みんなかなり心配してたぞ。特に石田がさ。俺が帰しちゃったけど、あとでメールしてやれよ。荷物まとめて持ってきてくれたのも石田だし」
「そう」
「で、俺、お前を家まで送る係なっ」
聞いてないことまで丁寧に説明したあげく、元気に言い放った神尾が、やはり幻か夢かそのようななにかで、ゆらりと消えてくれないかと伊武は切に願った。しかし、その願いはとどかない。
小さなため息を不調ゆえのものと受け取ったのか、神尾はふとまじめな顔になる。
「なあ。お前の体調が悪いのって、練習で疲れがたまってるからか? 前試合したときは調子良さそうだったけど、急にこんななってるし……悩んでるとか、そういうのあったらちゃんと言えよな。してほしいこととかも……いつでも聞くからな」
あの声で俺をよんでよ。
そうすれば、元気になるよ。
「最近少し食欲落ちてたし、まあ疲れが溜まってなかったってわけじゃないし……別に、悩みとか、ないとは言わないけど」
本音がこぼれないように繕うことにはもう慣れた。神尾にはきっと一生見破れない。
そうはさせない。
「あるんじゃねえか! 言ってみろって」
「そう? じゃあ言うけど……同じ部のやつが、好きな子に対して奥手すぎることが悩みでさ。同じ空間にいるだけでなんか心臓破裂しそうな顔するんだよ。あれどうにかなんないかなあ」
「それ俺かよっ」
俺もだよ。
顔にでていない自信は、あるけど。
いっそここで分かりやすく荒れてしまえば、神尾はより伊武を気にかけるようになるかもしれない。大切な仲間であり、好敵手なのだから。
それでも、結局は伊武を心配そうに振り返りながら、神尾は橘杏が待つ場所へと駆けていってしまうだろう。
だったら、最初から気を引くことはない。
今の立ち位置を甘受し、最良の友人であるのが賢い。
こうして伊武が感じるいらだちや焦燥は澱のようにたまっていく。いずれあふれ出すことを知りながら、伊武はそれをどこかへ逃がす術を持たない。
この毒はいつか心臓まで届くに違いなかった。
その前に神尾は幸せにならなければならない。
20110816
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