よびて

「絶対、勝ちましょうね!」
対氷帝を想定したオーダーが発表された直後、動揺に包まれかけた部室の空気を一瞬で切り替えたのは森だった。なんでお前なんだよ。俺らちょっとショックだわって顔で黙り込んでても許される役回りじゃん。俺だけ面食らって黙ってるとか、情けない構図にしてくれてさ。内心森に中指を突き立てる。普段ならこのあたりの役目を担う桜井でさえ困惑した素振りを見せたのに、森はちらともそんな様子は表に出してない。必死で耐えているのだというのはわかる。だってパートナーだし。
分解されたけど。
ここでの行動も、分かれたけど。俺は森の目を見なかった。チビによる帽子の不適切な使用法。いい子は真似するな。

練習前のミーティング後、それぞれに着替えてコートへ出ていった。橘さんはいつもどおり。石田や桜井なんかは少しこわばった表情で、着替えたもののなかなか外へ行こうとしない俺を気にしながらその後に続いた。靴ひもを入念にチェックしていた神尾も、誰か、というか俺を待っている様子だった森にくだらない話を振りながらさりげなくドアに促した。森は帽子をさわったりラケットバッグを探ってぐずぐずしている俺を振り返ったけれど、またもや俺は顔を上げなかった。二人分の視線を痛いほど感じる。しかしそれも一瞬のことで、気まずさに気づかない振りをした神尾が森の手を引いて出ていってしまう。
視界の端で、それらのやりとりに全く興味を示さなった深司が普段より荒っぽい調子でドアを閉めてった。早く出てこいという無言の催促にもとれる。あいつのことだから単にいらっと来てただけなのかも知れないけどな。
俺はそういう一人一人の様子をなんとなく見送り、最後まで動かなかった。部室に一人になってしまうと、さらに足が重く感じた。張り付いたように動かない足に視線を落とす。
薄汚れたテニスシューズ。何度も踏まれ、蹴られ、しまいには焼却炉まで突っ込まれてもどうにか救い出した。理不尽な暴力に耐えて、奇跡のように現れた転校生によってテニスができるようになった。そしていざ大会となったら遠回しの戦力外通告ときた。この相棒も報われない。
ほのかに苦い笑みが口の端にこみあげる。報われない、そのとおりだ。

「誰もいない部室でうつむいて笑ってるなんて、不気味だよな……ひょっとして狙ってるな? そうだろ」
完全に浸ってた俺が思わぬ声にたじろぐ。いつのまにか戻ってきたらしい深司は音もなくドアを閉めて、そのままそこに寄りかかった。アップを途中で抜けてきたのか、涼しい顔をしていても頬に一筋髪がはりついていた。

「なんだよ」
「内村こそ、なにしてるの。そうしていれば誰か迎えに来て、ついでに話を聞いてくれるとか思ってるんだろ。甘えるなよな。森が気にしてぜんぜん集中してないんだよね」
何倍返しだよこれ。まっすぐに俺を睨む深司の目は暗い穴みたいに底が見えなくて、ひたすらに冷えていた。俺はこの目を知っている。思い出すことすら苦痛を伴う、地に這い蹲るしかなかった日々のなかで、少しずつ凍り付くように温度をなくしていった深司の目。さんざんに痛めつけられ、全員が呻きながら地面に転がっている中一人身を起こし、空っぽのコートを見つめていたあの目だ。
「るっせーな。じゃなんでお前が来るんだよ」
たまらず、帽子のつばを引き下げて視線を遮った。本当に、なにしに来たんだよこいつ。
「なんでわかんないかな。森は内村のことも心配したいけど、あのオーダーのせいで君ら二人がそろってへそ曲げた、みたいな余計な負担を橘さんにかけたくないんだろ」
「ああ、余計な負担だろうよ」
痛いところを無遠慮に突かれて、俺はかみついた。
深司はわずかに面倒くさそうな顔をし、それでも背後のドアに背を預けた体勢のまま動かなかった。蛍光灯を消しているせいで薄暗いけれど、深司の目はそれ以上に暗く沈んでいる。
でも、なんとなく気づいた。深司はただ罵倒しに来たわけじゃないらしい。

「この寄せ集め集団でトーナメントを勝ち抜くために、橘さんは知恵しぼったんだろ。それで発表したら今まで無邪気に頼ってきてた後輩がすねちゃったらさあ、面倒だろうな。実力が伴ってないくせに文句だけは一人前とか、ほんと面倒にもほどがあるよ」
「喧嘩売ってんのか深司」
これはもう確認だ。深司は俺を殴りに来たか、まさかとは思うけど殴られに来たかのどっちかだ。

「さっさと買えよな、わざわざ売りに来たんだから」 
「んじゃ遠慮なく!」
言葉と身体、どちらが早く飛んでいったかわからない。深司はほとんど正面からストレートにたたき込んだパンチを片手でいなしながら、無造作に踏み込んでくる。

「まったく単純だよな。暴れれば多少ストレス発散できるかもとか思ってるだろ」
そこはおっしゃるとおり。深司は言いつつ、だいぶ慣れた動きで中段蹴りを放った。片足軸にして体をやや回しながらの蹴り。こっちの膝の高さを正確に狙ってくる陰湿さは相変わらず。
臑で受け止めたけど、普通に痛い。そして衝撃は重い。

「このっ」
深司が軸足を踏み変える隙をねらって低めの足技で応戦。あっちに比べてリーチがちょっと短いと自覚したのが地味にむかつく。
一発目は余裕のバックステップで交わされ、俺も蹴りの軌道を途中で変えて踏み込みに転じる。小さく旋回しての後ろ回し蹴りでどうだ、って、くっそ部室って喧嘩するには狭いな! いつも思うけど!
危うくロッカーにつま先をひっかけそうになり、勢いがそがれる。いまいち威力に欠ける蹴りは、床に片手をついて身体を沈めた深司のあいてる腕で受け止められた。そのまま回転と逆方向に足を払われてバランスを崩す俺に、深司がつっこんでくる。

白い手に襟をとられ、そのまま床に派手に転がった。背中を強かに打ったけど、後頭部強打はどうにか回避。埃が一気に舞うなか、しばらくマウントポジションの奪い合い。
テニスでも負けて殴りあいでも負けるなんざ洒落にならねえ!
もみあっているうちに、顔面を襲ってきたフックに帽子をとばされた。このリーチの差は卑怯だ! 驚いた振りをしながら隙をつくって誘い込んでやると、深司は案外あっさりとひっかかって上に乗り上げてきた。正面がら空きだ、舐めるなよ!
俺の足裏がジャージの胸に吸い込まれ、深司の身体がふっとんだ。いや言い過ぎ。正確にはすぐ後ろのロッカーにぶつかって、俺の蹴りよりもそっちに痛みを覚えたように短くうめいている。間髪入れずにこっちも身を起こして飛び込んだ。
襟元を片手で掴み、頬に一発入れてやる。自分の心臓の音と、鈍い打撃音が同じぐらい大きく聞こえた。そして、自分の荒い息づかいも。
深司は避けることも防ぐこともできた俺の勢い任せのパンチを素直に受け、顔を背けて眉をしかめている。手も空いているはずなのになんの抵抗もせず、身体の両脇に投げ出して、まるで、殴られてやった、みたいな。
気はすんだかとでも言いたげな視線に、血が一気に引いていく音がした。代わりに別のものがこみ上げてくる。


「なんでこうなるんだよ」
帽子がないとこういう時に困る。みっともなくゆがんだ顔の隠しようがない。
「なにが。まったく少しは手加減とかしろよな。本気で殴ってくれてさ、しかも顔だし、腫れたらそれこそ面倒じゃん」
身じろぎして顔の前にかかった髪だけ払った深司は、襟が
苦しいはずなのにそっちはまったく気にしてないように少し下から真っ直ぐこっちを見ている。こういう状況なのに、まったく声を荒げない様にさらに勢いがそがれた。我ながら随分弱々しい声で再び問いかける。
「なんで、こうなってんだよ」
「さあ。人数が多い部じゃあ当たり前なのかもしれないけど、俺たちは、こういうの初めてだし」

そこで一度言葉を切った伊武は、ふと目線を俺からはずし、背後の一点に据えた。そこに何があるかなんて振り向かなくてもわかってる。行こうぜ、全国、だ。

「ここでテニスをするためって目標で頑張ってたころは、全員で戦ってる感じだったんだけどな。これ俺だけ?なんか、変な感じなんだよなあ。こう思うのは俺だけかな。ああいうオーダーがこれからの普通になるのかな。なんか、違和感あるんだよな。これがやりたかったテニス?みたいなさ。これ、俺がわがままってことか。そうだとすると、本当、嫌になるな」
その語尾がわずかにふるえたことに、お互いが気づいてしまった。再び視線がかち合う。そして、「なに言ってんだ、新生テニス部作って、次の目標は全国! だろ?」なんてきれいな返事をとっさにできなかった俺。馬鹿だ。深司じゃないけど本当に嫌になる。
沈黙をもって高らかに図星です宣言をしてしまった俺は、反面少しだけ意外に感じた。深司がこういうことを言うとは思っていなかった。

深司は俺たちを苦境から救いだした橘さんのことを、心酔といったら言い過ぎかもしれないけれど、本当に慕っていたから。そして悔しいけれどテニスの腕だって神尾と並び、橘さんに次いでいる。あのオーダーから、橘さんが深司たちに向かって「やるぞ」って言ってるような気がしたんだ。俺と森はベンチでそれを眺めてる役な。

「そう、だな。あん時は、俺もお前も、ラケットすら握れなかった、同じ平部員だったのにな」
そして、全員で、戦ってたな。あの頃は。じゃあ、今のこれは、なんなんだよ。
頭の片隅にくすぶる深司や神尾への嫉妬。いつしかあきらめににた感情とともに受け入れていた、同学年でも別格の実力者の存在。けれどその片割れである深司は、今俺の前で整った顔に怒りとも悲しみともつかない表情の片鱗をのぞかせた。橘さんが考えたオーダーに、こいつも苦しんでいるのか。
でも深司、お前も俺も、やっぱりわがままだ。仲良しクラブは、大会で勝ち抜けないってことだ。

「なにその言いかた。内村さあ、ここで諦めないでよね。絶対。こんなところで諦めたら許さない」
唐突にするりと伸びてきた手が、俺の襟元をきつく掴んで絞めはじめた。白い手がさらに色をなくしている。
きれいな顔をしているやつが上目遣いにすごむと、妙な迫力があった。きつい視線にさらされて、俺は言葉をなくす。

「折角、テニスできるようになったんだからさ。ここであのオーダーに振り回されて、投げ出すなんて、絶対に、許さないから」

察しの悪い俺はようやく理解した。
深司は、それを言うためにここに来たんだ。
励ましや慰めでなく、ただ逃げるなと告げるために。

俺が勝手に引いた、実力者とその他、なんてボーダーを踏みにじって、深司は俺にテニスをしようと言っている。

萎えかけていた心の芯が熱くなる。あのオーダーに「いらない」と言われた気になっていた俺を、手が痛くなりそうなほど力をいれて引きあげようとする奴がここにいる。
遠い高みに立ちながら、俺を掴んで離そうとしないわがままな奴がいる。

単純な、と言われてもかまわない。
俺はこの手がずっとほしかった。

ずっとこの手を探していた。
こんなに近くにあることも、知らずに。
この手が欲しかったんだ。



「頼まれたって、諦めねえよ」

俺はいつもどおり憎たらしく笑みを作れたろうか。
少し下にある深司の目が、少しだけ優しくゆるんでいるようなのが気恥ずかしく感じ、視線をはずしてもう一度、笑っておいた。



「うん……じゃ、内村、歯食いしばって」
「え」
「本当は食らってあげた蹴りとあわせて二発なんだけど、まあ一発はおまけしてあげるか。俺もたいがい優しいよな」
ぼやいた後、短く息を吐いた伊武は容赦なく俺をぶん殴った。上半身だけで打ってこの威力とはやるな。つかきっちし仕返しすんのかよ。
お前、まさかこのために俺の襟掴んだ手離さなかったわけ?
深司はあまりの衝撃に阿呆かなにかのように頬を押さえる俺を、少しの気遣いもない調子で押し退けて立ち上がる。
ちょっとじんわりした俺の心を返せ! この薄く張った涙の膜は心が痛いからじゃねえ、殴られた痛みからくる生理的ななにかだ畜生!


「深司、いつまでタオル探してるつもりだ」
「……内村と闘魂注入してました」
手早く埃を払い、一瞬だけ振り返って殴り合いの痕跡とついでに涙を抹消した俺の様子を確認した深司は、ドアをあけて橘さんを迎え入れた。その手にはいつの間にか口実にしたらしきタオルが握られている。
ぼそぼそと深司がいつもの調子であやまると、橘さんは苦笑したようだった。
なにかあったとは気づいたけど、追求はしないってことだ。
「なんだ、じゃあ俺もやってもらおうか。さあ来い深司!」
「なんですかそのノリ。たまについていけないよなあ。できるわけないじゃないですか……他をあたってください」
「そうか。なら内村!」
「俺だってヤですよ橘さん殴るとか。んなことしたら石田あたりの胃がやばいでしょ」
「なるほど。それは一理ある」
自然に笑って返した自分におどろく。そして至極まじめな顔になってうなずいた橘さんに更に腹筋を刺激され、なんだかずいぶんすっきりした気分でラケットを掴んで出口へ向かう。

深司は橘さんから見えないところで俺の手をしっかりと握り、コートまで引っ張ると一度ぐっと力を込めてから離れていった。

頼まれたって、諦めねえよ。
柔軟をしながら口の中でもう一度さっきの言葉を転がす。
それは唇から出て行かない言葉で、まったく聞こえていないはずなのに、手伝ってくれている深司は「その調子」とでも言うように、おれの背中に平手を一発くれた。






20110816

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